貞観元年(627年)、太宗は黄門侍郎(門下省副長官)の王珪に向かって言いました。「中書省で起草する詔勅には、しばしば意見が一致しないことが多い。誤りを含むものもあれば、互いに間違った判断で直し合うこともあります。そもそも、中書省と門下省を設置した目的は、誤りを防ぎ合うためのものであり、意見の不一致は常にあるべきものです。しかし、それを是とするか非とするかを決めることは、公の職務のために行うべきことです。」
太宗は続けて、次のように警告しました。「しかし、時には自分の意見の欠点を隠し、それに対する批判を嫌がったり、賛成か反対かの議論をすると、それに恨みを抱く者も出てきます。あるいは、個人的な関係や面子を気にして、政策に間違いがあってもそれをすぐに実行してしまうことがあります。これでは、一官僚の気持ちを守るために、天下の人々に大きな害を与えることになります。このような政治こそが国を滅ぼす原因となります。」
太宗はさらに、隋の時代を引き合いに出し、官僚たちが曖昧な態度をとることで国を滅ぼしたことを説明しました。「隋の時代、官僚たちはどっちつかずの態度を取り、その結果、大きな混乱を招きました。その時、多くの人々は災いが自分に降りかかることを考えず、賛成しておきながら陰では誹謗しました。後になって大反乱が起き、家族も国も失われたとき、逃れた者も多くは辛苦の末にようやく免れたが、世間からは貶められ、排斥されたのです。」
太宗は結論として、官僚に対して「私心を捨てて公のために従い、正しい道を守り、意見を隠すことなく互いに伝え合い、決して雷同してはならない」と強く訴えました。
原文とふりがな付き引用
「貞觀元年(ていかん いちねん)、太宗(たいそう)謂(い)黃門侍郎(こうもん しろう)王珪(おう けい)曰(いわ)く、『中書(ちゅうしょ)出(しゅつ)詔敕(しょうちょく)、頗(すこ)し意見(いけん)不同(いふどう)、或(あるい)は錯失(さくしつ)を含(ふく)みて相(あい)正(ただ)し合(あ)うことあり。元(もと)より中書・門下(もんか)を置(お)き、相(あい)防(ふせ)ぎ合(あ)うことを本(もと)より謀(はか)りしなり。人(ひと)の意見(いけん)は、毎(つね)に或(あるい)は不同(いふどう)なり、有(あ)る是非(ぜひ)、本(もと)公事(こうじ)なり』」
「或(あるい)は己(おのれ)を護(まも)る短(みじか)き部分(ぶぶん)を隠(かく)し、其(その)失(しつ)を聞(き)くことを忌(い)み、或(あるい)は是非(ぜひ)の議(ぎ)をして怨(うら)みを抱(いだ)き、またある者(もの)は私(わたくし)を苟(い)して面(めん)を惜(おし)み、知(し)りながら非(あやま)りある政策(せいさく)をすぐに施行(しこう)してしまう』」
「難(むずか)し、一官(いちかん)の小(ちい)さき心(こころ)に逆(さか)らうことを憚(はばか)り、たちまち万民(ばんみん)の大(おお)きな弊害(へいがい)を招(まね)くこととなる』」
「隋日(ずいじつ)、外庶官(がいしょかん)、政(せい)依(よ)りて此(この)ようにして禍(わざわ)い乱(みだ)すこととなり、多人(おおくのひと)はこれを深(ふか)く考(かんが)えなかった』」
「当時(とうじ)、皆(みな)、禍(わざわ)い身(み)には及(およ)ばず、面(おもて)では従(したが)い、背(せ)では言(い)うことを誹謗(ひぼう)し、混乱(こんらん)が起(お)こることを想定(そうてい)せず』」
「後(のち)に大(おお)きな乱(らん)が起(お)こり、家(いえ)も国(くに)も失(うしな)い、家族(かぞく)も救(すく)われず、僅(わず)かに免(まぬが)れし者(もの)も、時(とき)には厳(おご)り、時(とき)には貶(けな)された』」
「汝(なんじ)は特(とく)に私心(ししん)を滅(ほろ)ぼし、公(こう)に従(したが)い、堅(かた)く直道(ちょくどう)を守(まも)り、相(あい)互いに隠(かく)すことなく言(い)い合(あ)い、上下(じょうげ)ともに雷同(らいどう)せず』」
注釈
- 中書省(ちゅうしょしょう)…詔勅などを起草する政府機関。
- 門下省(もんかしょう)…官僚の意見を確認し、誤りを防ぐための機関。
- 誤りを隠す(あやまちをかくす)…自分の意見の誤りを認めず、隠すこと。これが政治における弊害を生む原因。
- 私心(ししん)…個人的な利害や感情を捨て、公共の利益を優先することが求められる。
以下に、『貞観政要』巻一より、太宗が王珪に語った官僚制度と政務の在り方に関する重要な章句を、ご指定のフォーマットに従って整理いたします。この章句は、組織における建設的対立と公私の峻別の必要性を説いた、極めて現代的意義のあるものです。
『貞観政要』巻一「太宗、王珪に官僚の意見対立を諭す」より
―異見は組織の健全性を支える。私情を捨て、公正を守れ―
1. 原文
貞觀元年、太宗謂黃門侍郎王珪曰:
「中書出詔敕,頗有意見不同,或有錯失而相正以否。元置中書・門下,本擬相防察也。人之意見,每或不同,有所是非,本為公事。
或有護己之短,忌聞其失,有是有非,銜以為怨;或有苟徇私情,相惜顏面,知非政事,遂即施行。難一官之小失,頓為萬人之大害。此實關國之政,卿輩特須在意防也。
隋日外庶官,政以依違,而致禍亂。人多不能深思此理,當時皆謂禍不及身,面從背言,不以為患。後至大亂一起,家國俱喪,雖有保身之人,縱不及刑戮,皆辛苦僅免,甚為時論所貶黜。
卿等特須滅私徇公,堅守直道,庶事相攻錯,勿上下雷同也。」
2. 書き下し文
貞観元年、太宗、黄門侍郎・王珪に謂(い)いて曰く、
「中書省から詔勅を出すにあたり、しばしば意見の相違があり、あるいは過ちがあれば互いに訂正することもある。本来、中書と門下を設けたのは、相互に監察し合うためである。人の意見は常に一致するとは限らず、是非があれば、それはすべて公の事である。
だが、中には自分の非を庇おうとし、過ちを指摘されることを忌み嫌い、是非を怨みに変える者がいる。またある者は、私情に流され、互いに面子を惜しんで、誤った政策と知りながら施行してしまう。小さな誤りであっても、結果として万民に影響する大害となる。これはまさしく国家の政務に関わることだ。卿たちは特に心して注意しなければならぬ。
隋の時代、下級官僚たちは政務を忖度で処理し、それが原因で大きな乱を招いた。多くの者は、この理を深く考えず、『自分には災いは及ばぬ』と考え、表面上は従いながら裏で異を唱え、問題と認識しなかった。だが、後に大乱が起き、国家も家もともに滅びた。身を保った者でさえ、刑罰を免れたとしても、辛苦を重ねてようやく逃れただけで、世間の批判を大いに受けた。
卿らは必ずや私を滅し公に従い、直道を守り抜くがよい。互いに意見をぶつけ合い、上下一致の迎合などあってはならぬ。」
3. 現代語訳(逐語)
- 「意見不同、或有錯失而相正以否」
→ 意見の不一致や間違いを互いに指摘し合うことは当然のこと。 - 「護己之短、忌聞其失」
→ 自分の欠点をかばい、誤りを指摘されることを嫌がる者。 - 「苟徇私情、相惜顏面」
→ 私情に流され、互いの面子をかばい合う。 - 「知非政事、遂即施行」
→ 間違いと知りながらも、そのまま政策を実施してしまう。 - 「難一官之小失、頓為萬人之大害」
→ 一人の小さな失策が、万民への甚大な害に直結する。 - 「庶事相攻錯,勿上下雷同也」
→ 意見をぶつけ合い、上下が迎合するような風潮を断て。
4. 用語解説
用語 | 意味 |
---|---|
中書・門下 | 中央政務を担当する中枢機関。中書省は起案、門下省は審査を行う。 |
銜(ふく)む | 心に含む、恨みに思う |
攻錯(こうさく) | 意見をぶつけ合うこと。議論・批判によって正す |
雷同(らいどう) | 無批判に同調すること。権力者に迎合する態度のこと |
5. 全体の現代語訳(まとめ)
貞観元年、太宗は黄門侍郎の王珪に言った。
「中書省が詔勅を出すとき、よく意見が分かれたり、誤りがあって訂正されることがある。それは本来、中書と門下という制度が互いに監視し合うよう設けられているからだ。意見の違いは当然のことであり、すべては公務である。
だが、自分の非をかばい、誤りを指摘されると怒る者がいる。あるいは、私情やメンツに流されて間違った政策をそのまま実行する者もいる。こうした小さなミスが、結果的には国中に害をもたらす。だからこそ、君たちは常にそれを警戒しなければならない。
隋の時代、下級官僚が忖度して政を行い、それが災いを呼んで国家が滅んだ。当時、多くの者は『自分には関係ない』と考えていたが、大乱が起き、国家も家庭も崩壊した。たとえ命は助かっても、世間の非難からは逃れられなかった。
だからこそ、君たちは私心を捨て、公のために働き、まっすぐな道を守り、互いに意見をぶつけ合うことを恐れてはならない。上が下に迎合し、下が上に阿(おもね)るようなことがあってはならぬ。」
6. 解釈と現代的意義
この章句は、組織運営における「健全な異見」「内部牽制」「公私分別」の重要性を説いています。
太宗は、部下同士の対立や意見の食い違いを「公務の健全な証」として容認し、それを恐れることの方が害になると明言しています。
また、隋の失敗例から「忖度の横行が国家を滅ぼす」という教訓を引き出し、**“忠誠とは、指摘と建設的対立にある”**という信念を表明しています。
7. ビジネスにおける解釈と適用
- 「忖度と調和の違いを弁えよ」
意見が一致することが美徳ではない。むしろ“ぶつかり合いの中で最適解を探す”ことが組織を強くする。 - 「一人の誤りが全社の危機となる」
部門内の小さな判断ミスが、外部に大きな損害を与えるリスクがある。だからこそ、横断的チェック体制や意見交換が重要。 - 「“言える文化”は組織の防波堤」
“上が間違っても誰も指摘しない”組織は、緩慢に破綻していく。異論を歓迎し、それを制度的に保護する仕組みが必要。
8. ビジネス用の心得タイトル
「異論は組織の呼吸──忖度よりも直言を育てよ」
本章句は、現代組織論に通じる名文として非常に示唆に富んでいます。
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