貞観三年(629年)、太宗は側近の者たちに向かって言いました。「中書省と門下省は、国家の中枢を担う重要な官署であり、だからこそ才能ある者を抜擢して任命しています。その任務は非常に重いものであり、もし詔勅に理に適っていない点があれば、徹底的に議論し、改善を行わなければなりません。ところが、最近ではただ天子に従順に従い、意見を述べることなく、おざなりに文書が通過していくように感じます。誰も諫める者がいないことが問題です。もしただ文書に署名して発布するだけなら、それは誰にでもできる仕事です。どうして、わざわざ才能を抜擢し、政務に従事させる必要があるのでしょうか。」
太宗は続けて言いました。「これからは、詔勅に疑問があれば、必ず自分の意見を主張して上言しなければなりません。恐れることなく、知っていて黙っていることがあってはならない。」
原文とふりがな付き引用
「貞觀三年(ていかん さんねん)、太宗(たいそう)は侍臣(じしん)に曰(い)く、『中書(ちゅうしょ)・門下(もんか)、機(き)之司(し)。擢(と)才(さい)而居(お)き、委任(いいん)実(じつ)重(おも)し。詔敕(しょうちょく)如(ごと)き不安便(ふあんべん)あり、皆(みな)須(すべ)し執論(しつろん)。比(このごろ)来(きた)り唯(ただ)覚(おぼ)え阿旨(あし)順(じゅん)なり。唯唯(いいい)苟(いや)し、無(な)き一言(いちごん)諫諍(かんちょう)者(もの)。豈(あに)是(これ)理(ことわり)なり』」
「若(もし)唯(ただ)署(しょ)詔敕(しょうちょく)し、行文書(こうぶんしょ)而已(のみ)、人(ひと)誰(たれ)か不(ふ)堪(たん)なり。何(いかん)ぞ煩(わずら)わしく簡(けん)擇(たく)し、以(も)って相(あい)委付(いふ)すべきか。自(よ)より今(こん)詔敕(しょうちょく)疑(うたが)い不安便(ふあんべん)あれば、必(かなら)ず執(しっ)言(げん)せよ。無(な)得(え)畏懼(いく)し、知(し)りて寝默(しんもく)することなかれ』」
注釈
- 中書省(ちゅうしょしょう)…詔勅を起草し、国家の重要な決定を行う機関。
- 門下省(もんかしょう)…官僚の意見を管理し、詔勅を監督する機関。
- 執論(しつろん)…議論を尽くし、誤りを訂正すること。
- 阿旨順(あしじゅん)…天子の意向に従うこと、しかし過度に従順になりすぎることを批判しています。
- 署詔敕(しょしょうちょく)…詔勅に署名すること、ただしその内容に疑問があれば議論しなければならないことを強調しています。
- 寝默(しんもく)…知っていて黙っていること。無関心や恐れて意見を述べない態度を避けるべきだという教訓。
以下に、『貞観政要』巻一より、唐太宗が中書・門下の官僚たちに向けて発した厳しくも誠実な叱咤の言葉を、ご指定の構成で整理いたします。この章句は、**「直言を恐れず、真に政を担う気概を持て」**という、リーダーの期待と組織健全化の原理を明確に示すものです。
『貞観政要』巻一「中書・門下の責務と諫言の義務」より
―唯唯諾諾を戒め、真の任に応える直言を求む―
1. 原文
貞觀三年、太宗謂侍臣曰:
「中書・門下,機務之司。擢才而居,委任實重。詔敕如有不穩便,皆須執論。比來惟覺阿旨順旨,唯唯苟同,無一言諫諍者。豈是其理?
若惟署詔敕,行文書而已,人誰不堪?何煩簡擇,以相委付?自今詔敕疑有不穩便,必須執言。無得畏懼,知而寢默。」
2. 書き下し文
貞観三年、太宗、侍臣に謂いて曰く、
「中書・門下は政務の中枢を担う司(つかさ)である。才能を選び抜いてこれに任じ、責任は極めて重い。もし詔勅に不適切・不穏当な点があれば、必ずその場で異議を唱えるべきである。
近ごろは、ただ朕の意に迎合し、唯々諾々(いいだくだく)と従うばかりで、ただの一言も諫言をする者がない。これは本来あるべき姿であろうか?
もしただ詔勅に署名し、文書を発するだけでよいのであれば、誰にでもできよう。なぜわざわざ人を選んで任命する必要があるのか?
今後、もし詔勅に不適切と思われる点があれば、必ず異議を唱えよ。恐れて沈黙し、知りながら口をつぐむようなことは断じてあってはならぬ。」
3. 現代語訳(逐語)
- 「中書・門下,機務之司」
→ 中書省と門下省は、国家の根幹を担う機関である。 - 「擢才而居,委任實重」
→ 才能ある者を選び抜いて任命し、極めて重大な責任を負わせている。 - 「詔敕如有不穩便,皆須執論」
→ 詔勅に不都合があれば、必ず異議を唱えよ。 - 「惟覺阿旨順旨,唯唯苟同」
→ 最近はただ皇帝の意向に迎合し、形式的に従っているだけに見える。 - 「若惟署詔敕,行文書而已,人誰不堪」
→ もし署名して書類を流すだけなら、誰にでもできるではないか。 - 「無得畏懼,知而寢默」
→ 恐れて沈黙することなく、知りながら黙っていてはならない。
4. 用語解説
用語 | 意味 |
---|---|
中書省・門下省 | 詔勅の起草・審査を担当する重要な中央機関。 |
詔敕(しょうちょく) | 皇帝の命令書。国家の命運を左右する重要文書。 |
阿旨(あし) | 君主の意向におもねること。 |
唯唯苟同(いいこうどう) | ただ従い、異議を唱えない様。形式的な同意。 |
執言 | 意見・反論を述べること。 |
5. 全体の現代語訳(まとめ)
貞観三年、太宗は側近にこう語った。
「中書・門下というのは、国家の中枢機関であり、ここに任じられる者は、才能を選び抜かれ、重大な責任を託されている。もし詔勅に少しでも不適切な点があるならば、遠慮なく意見を言って正すべきである。
しかし最近は、私の意にただ迎合し、唯々諾々と従ってばかりで、誰一人として意見を言う者がいない。これは本来あるべき姿ではない。
もし、ただ詔勅に署名して文書を発するだけの仕事であるならば、誰にでもできることだ。なぜ君たちを特別に選んで任命しているのか、よく考えてほしい。
今後、詔勅に疑問があれば、必ず意見を述べよ。恐れて沈黙したり、知りながら見過ごすようなことは、決して許されない。」
6. 解釈と現代的意義
この章句は、**「リーダーの意向に従うことと、組織に真に貢献することは違う」**という、組織の本質的な問いを鋭く突いています。
太宗は、「黙って従うのではなく、真の責任感をもって異議を唱えよ」と、最も信頼する高官たちに強く求めました。ここには、権力を持つ者自身が、反対意見を歓迎するという高度な統治哲学が表れています。
7. ビジネスにおける解釈と適用
- 「上司の意向に従うだけの人間はいらない」
ただのイエスマンでは組織の役に立たない。トップの判断であっても誤りは起きうる。その時こそ補佐役の本領が問われる。 - 「形式的な業務遂行に意味はない」
「文書を流すだけなら誰でもできる」という太宗の言葉は、単なる手続き担当ではなく、“判断と責任”が伴う職務を遂行せよという要求。 - 「異論を言える職場こそ健全」
“恐れて黙る”文化は、最も危険な組織病である。上司が自ら「言ってほしい」と明言し、制度的にもそれを保障すべき。
8. ビジネス用の心得タイトル
「沈黙は忠ではない──異議こそが任を果たす者の義務」
本章句は、現代においても管理職の心得、経営会議のあるべき姿、リスクマネジメントの原点を教えてくれる極めて価値の高い教訓です。
コメント