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📖 原文引用(『ダンマパダ』第二五章 第371偈)
修行僧よ。瞑想せよ。なおざりにするな。
汝の心を欲情の対象に向けるな。
怠惰のゆえに鉄丸を呑むな。
(熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」と泣き叫ぶな。
(原文:
Jhāya bhikkhu mā ca pamādo,
mā te kāmaguṇe ramessu cittaṃ;
Mā lohaguḷaṃ gilī pamatto,
mā kandi “dukkham idaṃ” ti ḍayhamāno.
―『Dhammapada』Ch. 25, v.371)
🔍 逐語訳(逐文・簡潔)
- Jhāya bhikkhu:修行僧よ、瞑想せよ。
- Mā ca pamādo:怠ってはならぬ。
- Mā te kāmaguṇe ramessu cittaṃ:欲楽(感官の快楽)に心を向けるな。
- Mā lohaguḷaṃ gilī pamatto:怠りによって鉄の玉を呑むな(過ちの比喩)。
- Mā kandi “dukkham idaṃ” ti ḍayhamāno:「これは苦しい!」と焼かれながら泣くな。
📘 用語解説
- 瞑想(jhāya):心を静め、集中し、真理を見極める仏教の修行法。ここでは特に「内省と集中」の重要性を指す。
- 怠惰・なおざり(pamāda):「気を抜く」「修行を怠る」こと。仏教では最大の障害とされる。
- 欲情の対象(kāmaguṇa):視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚による五欲。執着を生む原因。
- 鉄丸(lohaguḷa):罪や煩悩がもたらす重い報いの象徴。地獄の刑罰を暗示している。
- 焼かれる苦(dukkhaṃ ḍayhamāno):煩悩に従った末の苦しみ。現世の後悔や輪廻の苦を表す。
🗣️ 全体の現代語訳(まとめ)
修行僧よ、瞑想を実践せよ。決して怠ってはならない。
心を欲望の快楽に向けるな。怠惰ゆえに、重い苦しみ(鉄丸)を呑み込むことのないようにせよ。
そして、その過ちの報いに焼かれながら「苦しい!」と泣き叫ぶことがないように、自らを律しなさい。
🧭 解釈と現代的意義
この偈は、日々の自己管理と内省(瞑想)を怠ることの重大な結果を強く警告しています。
快楽や誘惑は一見魅力的ですが、それに心を奪われると、あとから取り返しのつかない苦しみが待っている――まさに、「心の鉄丸」を呑むというたとえです。
現代人にとって、情報・娯楽・物欲は日常的な誘惑です。だからこそ、意識的に「静けさと集中」を取り戻す習慣(瞑想・内省・呼吸など)が必要不可欠なのです。
💼 ビジネスにおける解釈と応用
観点 | 応用・実践例 |
---|---|
自己管理 | 多忙の中でも、1日数分でも内省や呼吸・瞑想の時間を確保し、心の整理を習慣化する。 |
欲望のコントロール | 名誉・報酬・刺激に流されず、自分にとって本当に大切な価値を見極める視座を持つ。 |
プロ意識 | 怠惰や気の緩みが招く重大なミスや後悔に対して、日常の“仕切り直し”と気づきの習慣を持つ。 |
感情の予防管理 | 誘惑に流されてトラブルになった後に後悔する前に、事前に自らを整え、冷静さを保つ力を身につける。 |
🧠 心得まとめ(ビジネスパーソン向け)
「心の火種は、欲と怠りから燃え上がる。静けさで、それを消せ。」
忙しさの中で瞑想や内省を“贅沢”と思う者は、やがて後悔という鉄丸を呑むことになる。
毎日少しでも、心の整備を怠らないこと。それが、失敗の火を未然に消す最善の知恵である。
「これは苦しい」と泣かぬために――今、瞑想せよ。
この偈は、仏教的修行だけでなく、現代的なメンタルヘルスやセルフマネジメントにも直結する非常に実践的な教えです。
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