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人が敬うのは地位と装い、人が侮るのも見かけにすぎない

もし自分が高い地位に就けば、人々は持ち上げてくれるだろう。
だが、それは自分自身を敬っているのではなく、高位高官の礼服(峩冠大帯)という「装い」を敬っているにすぎない。

逆に、自分が低い身分にあれば、人々は軽んじてくるかもしれない。
しかしそれもまた、みすぼらしい服装(布衣草履)を見て、見下しているにすぎない。

そうであるならば、人が自分を褒めようが、けなそうが、それは「自分自身」に対しての評価ではないのだ。
ならば、褒められて喜ぶことに何の意味があるだろうか。
貶されて怒ることに、いったい何の価値があるのだろうか。

孔子も「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し」と述べ、
老子は「褐を被(き)て玉を懐(いだ)く」、つまり質素な衣の内に本質の価値を抱く者こそ聖人であると説いた。

見かけに動かされず、本質において自らを知ることができれば、人は外の評価から自由になる


原文(ふりがな付き)

「我(われ)貴(たっと)くして人(ひと)之(これ)を奉(ほう)ずるは、
此(こ)の峩冠大帯(がかんたいたい)を奉ずるなり。

我(われ)賤(いや)しくして人(ひと)之(これ)を侮(あなど)るは、
此(こ)の布衣草履(ふいそうり)を侮るなり。

然(しか)らば則(すなわ)ち原(はら)より我(われ)を奉ずるに非(あら)ず、
我(われ)胡(なん)ぞ喜(よろこ)びを為(な)さん。

原(はら)より我(われ)を侮るに非ず、我(われ)胡(なん)ぞ怒(いか)りを為さん。」


注釈

  • 峩冠大帯(がかんたいたい):高位の人がまとう華やかな礼装。権威や地位の象徴。
  • 布衣草履(ふいそうり):庶民の質素な衣装。貧しさや低身分を表す。
  • 奉ず(ほうず):敬う、かしづく。
  • 侮る(あなどる):見下す、ばかにする。
  • 原非奉我(げんぴほうが):もともと私を敬っているわけではない。
  • 胡為(なんすれ)ぞ~んや:どうして~しようか。反語的表現で否定を強調する古典語法。

パーマリンク候補(英語スラッグ)

  • don’t-chase-appearances(見かけを追うな)
  • true-worth-is-invisible(真の価値は外にない)
  • praise-or-scorn-it’s-not-you(褒めてもけなしても、それはあなた自身ではない)

この条は、現代にも通じる「他人の評価への囚われ」から解放されるための一節です。
人の言葉に一喜一憂せず、静かに、誠実に、自分の内なる価値を生きること――その強さと気高さを教えてくれます。

1. 原文

我貴而人奉之、奉此峩冠大帶也。
我賤而人侮之、侮此布衣草履也。
然則原非奉我、我胡為喜。原非侮我、我胡為怒。


2. 書き下し文

我(われ)貴(たっと)くして人(ひと)之(これ)を奉(ほう)ずるは、此(こ)の峩冠(がかん)大帯(だいたい)を奉ずるなり。
我賤(いや)しくして人之を侮(あなど)るは、此の布衣(ふい)草履(そうり)を侮るなり。
然(しか)らば則(すなわ)ち原(はら)我を奉ずるに非(あら)ず、我胡(なん)ぞ喜びを為(な)さん。
原我を侮るに非ず、我胡ぞ怒りを為さん。


3. 現代語訳(逐語訳/一文ずつ訳)

  • 「我が貴くて人が敬うのは、この峩冠大帯(かっちりした衣冠)を敬っているに過ぎない」
     → 私が高い地位にいて人が敬ってくれるのは、その立派な衣冠や地位を敬っているだけであって、本当の私を敬っているわけではない。
  • 「我が賤しくて人が侮るのは、この粗末な服や草履を侮っているに過ぎない」
     → 私が貧しくて人が軽んじるのも、粗末な衣服や外見を見下しているだけで、本当の私を侮っているわけではない。
  • 「ならば、それは本来私自身を敬っているのではないのだから、なぜ私は喜ぶ必要があるのか?」
     → 敬われているのは“中身”ではなく“飾り”に過ぎないのだから、そんなことで喜ぶ理由はない。
  • 「また、本来私を侮っているのではないのだから、なぜ私は怒る必要があるのか?」
     → 見下されているのは“外見”であって“私の人格”ではないのだから、怒る理由もない。

4. 用語解説

  • 峩冠大帯(がかん・だいたい):高官が着用する立派な冠や帯。地位・身分の象徴。
  • 布衣草履(ふい・そうり):粗末な着物と草履。庶民や貧しい人の服装の比喩。
  • 奉ずる(ほうずる):敬意をもって仕える、敬う。
  • 侮る(あなどる):見下す、軽んじる。
  • 胡為(なんすれぞ):なぜ~するのか。理由を問う古語的表現。

5. 全体の現代語訳(まとめ)

私が高い地位にいて人が敬ってくれるのは、立派な服装や肩書を敬っているだけであり、私自身を敬っているわけではない。
また、私が貧しくて人が侮るのも、粗末な衣服を侮っているだけであり、私の本質を侮っているわけではない。

したがって、敬われても本質を敬われているわけではないのだから、喜ぶ必要はない。
侮られても本質を侮られているのではないのだから、怒る必要もない。


6. 解釈と現代的意義

この章句は、**「人の評価に振り回されない精神」**を説いたものです。

  • 人は他人の“肩書・地位・装い”に反応しているのであって、“本質”を見ているとは限らない。
  • したがって、外的評価によって一喜一憂することは、むしろ自己を見失う原因となる。

つまり、**“他人の見るものと、自分が保つべき誠の違い”を知ることが、真の人間力である”**と教えてくれます。


7. ビジネスにおける解釈と適用(個別解説付き)

●「役職・肩書による評価は“人”ではなく“ポジション”への反応」

  • 部下や他社から敬われていると感じても、それは地位や社名に対する反応であり、自分個人への評価ではないかもしれない。
  • 真の信頼・尊敬は、その役職を離れたときにこそ見えてくる。

●「見下されても、それは“現象”であって“本質”ではない」

  • 成果が出せない時や無名な時に軽んじられても、それは“今の立場”を侮られているのであり、自身の可能性や人格を否定されているわけではない。
  • 自分を信じ続ける姿勢が、やがて逆転をもたらす。

●「“喜び”や“怒り”の源泉を他者評価から外す」

  • 外からの称賛・批判に心を左右されるほど、行動がぶれやすくなる。
  • 自らの信念と価値観を中心に行動し、他者の評価はあくまで“参考値”ととらえるマインドが必要。

8. ビジネス用の心得タイトル

「賞賛は衣に、非難は貌に──本質を忘れず心を定めよ」


この章句は、**「真の自信とは、他人の目に宿らない」**という真理を教えています。

華やかな評価にも、冷たい視線にも惑わされない強さ。
それは、自分自身の“中身”と“信念”に基づいた生き方の中にこそ宿るものです。

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