孟子は、徳の実践において最も高い境地とは何かを語り、
最終的に到達すべき態度を 「行法以俟命(ぎょうほう もって めいをまつ)」=正しい道を実行し、あとは天命を待つ と結論づけている。
まず孟子は、四人の聖王を二つの型に分けて解説する:
- 堯(ぎょう)・舜(しゅん):
生まれながらにして道にかなう本性を備え、それを自然に実行できる人物。 - 湯王(とうおう)・武王(ぶおう):
努力して本性に立ち返り、修養を積んで道に至った人物。
しかし、両者に共通していたのは、その動作・言動の細部に至るまで、礼にかなっていたことである。これを孟子は「盛徳の至り」と評している。
さらに孟子は、「動機の純粋さ」を強く重んじる:
- 死者を哭して哀しむのは、生者に聞かせるためではない
→ 哀悼の心は形式でなく、真の悲しみから出るべきもの。 - 常に徳を実行し、少しのよこしまもないのは、禄(=報酬)を得るためではない
→ 徳行は私益のためではなく、道を行うということそのものが目的。 - 言葉に信実があるのは、人に認められるためではない
→ 誠実は外に見せるものでなく、自らの本性から発するもの。
こうして孟子が導く最終的な姿勢は、次の一言に集約される:
「君子はただ正しい道(法)を行い、あとは天命を待つのみ」
これは、「人事を尽くして天命を待つ」の原義に等しく、結果ではなく、常に“行うべきことを行ったか”を問う生き方を示している。
孟子における“道徳”とは、**計算や報酬を超えた、「心からそうあるべきと信じることを実行する力」**なのである。
引用(ふりがな付き)
「孟子(もうし)曰(いわ)く、堯(ぎょう)・舜(しゅん)は性(せい)のままなる者(もの)なり。湯(とう)・武(ぶ)は之(これ)に反(かえ)るなり。
動容(どうよう)・周旋(しゅうせん)、礼(れい)に中(あ)たる者は、盛徳(せいとく)の至(いた)りなり。
死(し)を哭(こく)して哀(かな)しむは、生者(せいじゃ)の為(ため)に非(あら)ざるなり。
経徳(けいとく)回(まが)らざるは、以(もっ)て禄(ろく)を干(もと)むるに非ざるなり。
言語(げんご)必(かなら)ず信(しん)なるは、以て行(こう)いを正(ただ)すに非ざるなり。
君子(くんし)は法(ほう)を行(おこな)いて、以(もっ)て命(めい)を俟(ま)つのみ」
注釈
- 性のまま…本性のままにして自然と道に合致する状態。天性の賢者。
- 反る(かえる)…後天的努力により、天性の徳に立ち返る。
- 動容・周旋…立ち居振る舞い、態度や言葉づかいの一挙一動。
- 礼に中る…礼法・道徳にかなうこと。
- 回(まがる)…よこしま、不正の意。
- 干禄(かんろく)…禄(報酬、地位)を求めること。
- 法を行う…正しい理法、道徳、原則を実行すること。
- 命を俟つ…天命を待つ、結果は天に委ねる。
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