― 不動心のためには、志を鍛え、気を大切にせよ ―
前章で孟子は、「千万人といえども我ゆかん」と語る曾子の言葉を紹介し、
“正義に根ざした行動こそ真の勇”であると述べた。
その言葉を受けて、公孫丑はさらに問う。
「先生と告子では、どちらも“不動心”を語っていますが、その違いはどこにあるのですか?」
孟子は、こう明確に答える――
告子は、「他人の言葉が理解できないなら、無理に心で解釈してはいけない。心で理解できなければ、気まで苛立たせるようなことをしてはいけない」と説いた。
このうち、「心で理解できなければ、それを気にまで及ぼさないのがよい」という点は賛成できる。だが、「言葉が理解できなければ、心で考えるな」というのは間違っている。
なぜなら、人の「志(こころざし)」は、「気(き)」を導くものだからである。
そして「気」とは、人の体内に満ちていて、行動や感情の源となる力でもある。
孟子は言う――
「志があるべきところに至れば、気は自然にそれに従う。だからこそ志は堅く持たねばならず、同時に、気を乱暴に扱うことがあってはならないのだ」。
ここで公孫丑は重ねて尋ねる。
「気が志に従うのであれば、志さえ正しければ、気を乱暴に扱うということは起きないのでは?」
孟子は答える。
「たしかに、志が一つの方向に向いていれば、気はそれに従う。
だが、気が強く一つの方向に満ちてしまうと、逆に志や心を動かしてしまうこともあるのだ」。
たとえば、歩いていて何かにつまずいたとき、人はその勢いで2〜3歩走ってしまうことがある。
これは心でそう判断したのではなく、気のはたらきによって身体が動いたためである。
つまり、気を整えておかないと、せっかくの志すらも流されてしまう危険があるのだ。
原文(ふりがな付き引用)
「曰(いわ)く、敢(あ)えて問(と)う。夫子(ふうし)の心(こころ)を動(うご)かさざると、告子(こうし)の心を動かさざると、聞(き)くことを得(う)べきか。
告子曰(いわ)く、言(ことば)に得(え)ざれば、心に求(もと)むること勿(なか)れ。心に得ざれば、気に求むること勿れ。
『心に得ざれば、気に求むること勿れ』は、可(か)なり。『言に得ざれば、心に求むること勿れ』は、不可(ふか)なり。
夫(そ)れ志(こころざし)は、気(き)の師(し)なり。気は体(たい)の充(み)つる所(ところ)なり。志至(いた)る所に気は従(したが)う。
故(ゆえ)に曰(い)う、『其(そ)の志を持(じ)し、其の気を暴(あら))すること無かれ』と。
既(すで)に『志至る所に気従う』と曰い、又(また)『志を持ち、気を暴すること勿れ』というは、何ぞや。
曰く、志一(いつ)ならば則ち気を動かし、気一ならば則ち志を動かすなり。
今(いま)夫(そ)れ蹶(つまづ)く者の趨(はし)るは、是(これ)気なり。而(しか)して反(かえ)って其の心を動かす。」
注釈(簡潔版)
- 志(こころざし):人の意思・目的。心が向かう先であり、気を導く主導者。
- 気(き):身体に満ちる活力・勢い。思考や感情、行動に大きな影響を及ぼす。
- 暴する(あらする):粗雑に扱うこと。コントロールせずに衝動に任せること。
- 蹶(つまず)く者の趨る:歩いていてつまずいた拍子に走ってしまうこと。無意識の勢い=気のはたらきの例。
- 告子:孟子の論敵。冷静な理性主義者とされるが、本質的な内省に欠けると孟子は批判している。
パーマリンク(英語スラッグ案)
cultivate-both-will-and-spirit
(志と気をともに養え)do-not-let-energy-rule-mind
(気が心を支配してはならない)train-the-heart-and-chi
(心と気を鍛える)
この章は、孟子哲学における「心」「志」「気」の関係性を象徴する重要なパートです。
不動心とは単なる感情の抑制ではなく、志を堅持し、同時に気を丁寧に養い育てる修養の道なのだという深い教えが込められています。
このあとに続く「浩然の気」も、まさにその発展型です。
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