このテキストは、従来の人間関係論が真の人間関係を形成するどころか、実際には人間を侮辱し、その潜在能力を無視するものであると主張しています。
筆者は、人間の能力は表面的な評価では計り知れず、人には予想外の能力が秘められていると強調します。
その上で、人間関係を真に尊重し、個人の隠された能力を最大限に引き出すためには、高い目標を設定し、厳しい試練を与えるべきだと論じます。
筆者は「ムリ」と思われる要求こそが、人間への真の信頼であり、それに応える過程で個人や組織の真の成長が促されると信じています。
「企業の目標の本質」を理解させよ、そこから真の人間関係が生まれる
筆者は、くり返し伝統的な人間関係論を攻撃してきた。しかし、筆者は人間関係否定論者ではなく、真の意味の人間関係推進論者の一人であると自負している。つまり、「マン・パワー」論者である。
伝統的な人間関係論は、真の人間関係ではなく、ごまかしのニコポン主義的人間関係論(*3)にしかすぎないのだ。というのは、むしろ外交辞令的表現であって、本当のことをいえば、その正体はまさに「人間侮辱論」である。
人間尊重と称して、その心理を研究し、満足感というよりは、むしろ弱点を逆に利用して人を動かそうとする。そして、それを動機づけと称して美化している。
その中で、徹底的に摩擦を罪悪視し、仲よくすることが至上であるかのごとき指導をし、革新・創造の芽をつんでしまう。
革新に摩擦はつきものなのだ。摩擦をおそれたら何もできなくなる。
三洋電機が電気洗濯機で、いち早く業界のトップに躍り出たのは、洗濯槽と、上部内張りの「ハゼ組み」の自動ロール機をいち早く開発したことに負うところが大きいのだ。
その自動機の開発途上で、関係者の間で常に大激論がかわされ、ついには取っ組み合いのけんかまでしているのである。
けんかを肯定するわけではないが、仕事にはそのくらいの熱意が必要なのだ。摩擦をおそれたら、何もできない。
能力を見極めるのは至難の業
人間関係に出てくるのは「話合い」であり、「意見をいわせる」であり、「参画させる」という、いかにも人間尊重のようにみえても、すぐその後から馬脚をあらわす。
つまり、「ムリをいってはいけない」であり、「能力に合った仕事をさせる」である。ムリかどうか、が、簡単にわかるものではない。相手の能力を見きわめるなどは至難の業である。
筆者が、戦争中に軍隊で経験したことがある。戦争の最後の年に、名古屋で自動車の修理隊長をやっていたときのことである。三月一九日の空襲で、筆者の隊も焼けだされたのである。
そのときに、最も目ざましい活躍をしたのは、能力が低いという判定のために、上等兵に進級することもできなかったK一等兵だったのである。
筆者は自分の不明を恥じるとともに、人間の能力の判定がいかにむずかしいものであるかを痛感したのである。
それ以後も、筆者はそれに似たような経験を何回もしているのである。人の能力など、容易にわかるものではない。
それを、「能力に合った」というようなことを簡単に考えて、表面的な観察で能力判定をやるのだから、判定されるほうは、たまったものではない。
そして、それらの論調の底にあるものは何か、「程度の低い人間は、こうして使うのがいちばんである。あいつの能力は、この程度のものだろう」という、人を見下した態度なのだ。
どこに人間尊重があるのか。人をコケにするにもほどがある。これが人間侮辱論でなくてなんであろうか。
過保護は自己保存本能をマヒさせてしまう
「東洋の魔女」を鍛えた「鬼の大松」(*4)の非人道的とも思えるシゴキのうちに、監督と彼女たちの間に温かい人間性の交流と、鉄の団結と水ももらさぬチームーワークができ上がったのである。
彼女たちのかくれた能力が完全に引き出されたのである。
それに反して、表面は人間性尊重のごとくみえた後任監督のもとで、魔女と監督の人間関係はくずれ、チームは空中分解してしまったではないか。
どちらが本当に人間尊重で、どちらが人間侮辱であろうか。人間関係論者よ、胸に手を当てて、静かに反省してみてもらいたい。
あなたがたが人間尊重と思っていることそれ自体、実は「人間不信」の理念であることを。いいかえると、あなたがたが「Y理論」だと思っていることの正体は「X理論」なのである(*5)。
ついでにいえば、この理論そのものが間違っていることを、当のマクレガーが体験していることを。
人間というものは、あなたがたが考えているほどバカでもなければ、無能力者でもないのだ。人間を無能力化してしまうのは、あなたがたのふり回す人間関係論(だけではなく、もろもろの間違ったマネジメントの理論)なのである。
人間をあまやかし、過保護を加え、自己保存本能をマヒさせてしまうからなのだ。
「お大尽の道楽息子」「総領の甚六」の伝なのだ。
人間は幸福感、満足感を得ると、進歩が止まってしまうという、やっかいな動物なのだ。安心感を得ると努力しなくなるのだ。
イギリス経済の破綻の原因のうちに、「完備した社会保障制度のために、人びとが意欲的に働かなくなった」ことがあげられているのは、われわれに深く考えさせる教訓を含んでいる(*6)。
真の人開関係とは、どうも人間関係論者の主張とは違うようだ。いや、違うのだ。
〝可愛い子には旅をさせろ〟〝獅子はわが子を谷底につき落とす〟
〝可愛い子には旅をさせろ〟〝獅子はわが子を谷底につき落とす〟。これが真の人間尊重の理念ではないのか。
何百年の長きにわたり、人間の叡智の「ふるい」にかかって生き残ってきた格言なのだ。正しくなければ消えているはずである。
真に人間を尊重するならば、なぜ人間を信頼し、その人のかくれた能力を期待して、本人さえも考えてみなかった高い目標を与え、重い責任を負わせて突き放さないのだ。
そして、ジッと見守っていてやらないのだ。その試練に負けてしまったのなら仕方がない。それもせずに、頭から他人の判断だけで本人の能力を判定してしまうのは、人間不信である。
このようなことをするのは、きめつけられる当人だけでなく、あなた自身をも傷つけることになりはしないだろうか。
筆者のこのような主張は、本書ですでにあげた、いくつかの実例だけでなく、世の中のたくさんの実例や、いくたのすぐれた企業の人間指導理念とその実績から生まれてきているのである。
ムリと思われることを人に要求
筆者は以上のような考えから、ムリと思われることを人に要求する。
そのときに、「ムリだから君に頼むのだ。ムリでなければ君には頼まない」というのだ。これが人間信頼なのだ。
ムリだとは思う、しかし人はどんなかくれた能力をもっているかわからない。いやもっているのだ。それに期待して、いまはムリと思うことを頼む、というのだ。
そして、そのムリをいわなければならない理由として、本章に述べているような「企業の目標の本質」を、じっくりと説明し、きびしい現実を生き抜くための覚悟と心構えを、くり返し強調することが大切である。
こうすると、だれでも必ずといっていいくらい納得してくれるのだ。筆者は、講座で、このようにやるのだ。
そして、受講者の感想をきいてみると、
- 「きびしい現実に対する認識が不足していた」
- 「自分の考え方があまかった」
- 「いままで、社長の要求がムリであると思いこんでいた自分の考えが、間違いであることがわかった」
というような意味のことを一〇人のうち九人までいうのである。「今日からは、覚悟を新たにして、自分の役割を果たそう」という気構えができたのだ。
きびしい事態を認識し、トップの意図を理解することによって、自分の役割を自覚したのだ。
そして、自らの意志で、自らの意志を無視して押しつけられた目標を達成するために、進んで困難にぶつかってゆく覚悟ができたのである。
ここに、精神革命が行われたのだ。そして、その日から、それらの人びとの行動がハッキリと違ってくるのを、筆者はこの目で確かめているのだ。
例をあげよう。
M社で、同期化計画を推進しているときのことである。いままでは数が少なかったので、ロット生産で流していた。そこへ、新機種が加わり、数量が一気に三倍にもなるので、コンベアで流そうというのである。
定石にしたがって、生産技術課で慎重に検討されただけでなく、相当思いきった改善案が盛られていたのである。
これの第一回の検討会のとき、製造課長は、「この案によると所要人員が三二人ということだが、これではわが課の付加価値目標に到達しない。
目標に達するためには、あと三人減らして、二九人でやらなければならない。したがって、この案は承服できない。二九人以内でやれるように、再検討をしてくれ」と、その案を生産技術につき返してしまったのである。
普通の場合だったら、三二人の案が検討され、製造部門からは、その人員ではできない。こういう条件が盛りこまれていない。
ああいう要因が見落とされている、というような意見が出るにきまっている。いろいろなやりとりがあって、それでは、これこれのところと、これこれのところを、こうやって、人員は三四名とする。というように落ちつくのが相場である。
つぎにY社の例である。
筆者は定期的にその会社へお伺いしているのだが、あるとき社長が筆者につぎのように語った。
「この間、資材課長にコテンコテンにしかられてしまいました。それというのは、新入社員を労務課長が何の気なしに、資材課ヘ一人配属したのです。これは明らかに労務課長のミスです。
というのは資材課に私が与えた目標の中に、〝今年中に人員を三名減らせ〟というのがあるのです。そしてすでに苦心して二人減らし、あと一人減らすために苦労しているその最中に、一人増員ということになるからです。
資材課長は、労務課長に〝会社の目標を何と心得ているか〟とやっつけて、配属の取り消しを要求し、それでもおさまらずに、私のところへやってきて、〝社長の不心得〟を説教したのです。
私は、資材課長のお説教をききながら、本当にうれしかった。こういうしかられ方なら、毎日でもいい」ここにあげたようなことは、普通の会社の普通の状態では、まず絶対にないといえよう。
読者の中には、つくり事だ、こんなことはあるはずがない、と思われるかたもあると思う。そして、そう思われるのがあたりまえなのである。
しかし、これはまぎれもない実話なのである。
ニコポン主義的人間関係論に、このような事実があるならば、ぜひ私に知らせてもらいたいものである。
先日お目にかかった、T社の製造課長は、筆者につぎのように語った。
「私は先生のお話をきいて、つくづく反省しました。いままでは、自分でこれ以上できないと思いこんでいました。責任者がそう思いこんでいるのだから、できるわけがありません。
〝不可能を可能なものに変えるのが幹部の役目だ〟という先生の言は、私にとっては痛棒だったのです。おかげで目がさめました。
私はさっそく、私の決意を上司と部下に話し、部下に対してムリをいうことを宣言いたしました。
それと同時に、部下もいいたいことをぼくにいえ、そのために毎週一回、終業後に会合を開くというようにしたのです。
あれから二カ月、生産は上昇し、不良は減り、職場の士気はますます盛んです。
毎週一回の終業後の会合も、義務づけはしないのですが、欠席するものはほとんどおりません。その会合で、私のムリに対する前向きの解決案があとからあとからと出てくるのです。
部下にムリをいえない上役はダメですね。そういう上役は、客観情勢のきびしさを知らず、自己の職責を果たしていないのですから」
以上にあげた三つの例が、筆者のいう「マン・パワー論」の一端なのである。
人間は、人間関係論者が思っているほどバカでもなければ無能力者でもない、という筆者の主張は、このような実証に裏づけられているのである。
精神革命によって、人間の考え方も行動も、このように変わってゆくのである。この精神革命こそ、人間関係の根底をなすものである、と筆者は信じているのである。
真の動機づけというのは、精神革命を起こさせることなのだ。人間の行動の動機づけとして最大なものは、「自己保存本能」であろう。
寒さや恋よりも、エジキが先なのである。火事のときに、思いもおよばないような力を出すことは、よく知られた事実である。
これは、自己保存本能の力なのだ。企業をとりまく客観情勢は、日ごとにきびしく、変転きわまりない。その変化に対応できない会社は、たちまちのうちに破綻してしまうのだ。
この事実を、企業の成員が認識したときに、そして、わが社も従来のやり方、考え方でいると消え去る運命にあることを知った、その瞬間から、成員の態度は変わってしまう。
自己保存本能が目ざめて、大号令を下すからである。これが精神革命なのだ。そして、いまほど精神革命が必要なときはないのである。
まとめ
このテキストは、伝統的な人間関係論が真の人間尊重ではなく、むしろ人を侮辱するものとして機能していると主張しています。筆者は、表面上の人間尊重や能力判定が、実際には人の潜在能力を見下し、侮辱する行為に他ならないと指摘します。人間は予測できない能力を秘めており、その能力を最大限に引き出すには、高い目標を与え、重い責任を負わせる必要があると論じます。また、筆者は、企業の目標の本質を理解し、挑戦的なタスクを与えることで、人間の隠された能力を引き出せると信じています。これは、人間を真に尊重し、信頼する姿勢であり、一見無理と思われる要求でも、その人の成長と企業の進歩に繋がると主張しています。
コメント