― 評価には歴史的背景への洞察が欠かせない ―
文王の偉大さをもってしても、なぜ王道を実現できなかったのか。孟子はその理由を「時代と背景の制約」に求めた。
殷は、初代・湯王から中興の祖・武丁まで、六~七代にわたり賢君が続いた王朝だった。これだけ長く徳の統治が続いた国は、民も体制に馴染み、簡単には変革を受け入れない。
そのため、武丁が多くの諸侯を従え、天下を掌握したのは、たやすいことだった――まさに「掌(てのひら)を運ぶがごとく」であった。
その後に現れた暴君・紂王でさえ、即座に失脚することはなかった。
それは、彼の治世になおも善政の残響があり、忠臣たち(微子・微仲・比干・箕子・膠鬲)が国を支え続けたからである。
一方、文王は殷という巨大な王朝の影響下にあった百里四方の小国から出発した。
そのような立場で天下に徳を行き渡らせることが、いかに困難であったか――孟子はこの文脈の違いを強調することで、人物を正しく評価するには、単なる結果だけでなく、その“出発点”と“置かれた時代”を見る眼が必要だと説く。
原文(ふりがな付き引用)
「曰(いわ)く、文王(ぶんおう)は何(なん)ぞ当(あ)たるべけんや。
湯(とう)より武丁(ぶてい)に至(いた)るまで、賢(けん)なる君(きみ)六七作(つく)る。
天下(てんか)、殷(いん)に帰(き)すること久(ひさ)し。久しければ則(すなわ)ち変(へん)じ難(がた)し。
武丁(ぶてい)、諸侯(しょこう)を朝(ちょう)し、天下(てんか)を有(ゆう)つこと、猶(なお)お之(これ)を掌(たなごころ)に運(めぐ)らすがごとし。
紂(ちゅう)の武丁(ぶてい)を去(さ)ること、未(いま)だ久(ひさ)しからず。
其(そ)の故家(こか)・遺俗(いぞく)、流風善政(りゅうふうぜんせい)、猶(なお)存(そん)する者(もの)有(あ)り。
又(また)、微子(びし)・微仲(びちゅう)・王子比干(おうしひかん)・箕子(きし)・膠鬲(こうかく)有(あ)り。皆(みな)賢人(けんじん)なり。相与(あいとも)に之(これ)を輔相(ほそう)す。
故(ゆえ)に久(ひさ)しくして而(しか)る後(のち)之(これ)を失(うしな)えるなり。
尺地(せきち)も其(そ)の有(ゆう)に非(あら)ざるは莫(な)く、一民(いちみん)も其の臣(しん)に非ざるは莫し。
然(しか)り而(し)して文王(ぶんおう)は方百里(ほうひゃくり)より起(お)こる。是(こ)れを以(もっ)て難(なん)きなり。」
注釈(簡潔版)
- 武丁(ぶてい):殷王朝第20代。中興の名君とされる。
- 掌(たなごころ)に運らす:手のひらの上で物を動かすように容易なことのたとえ。
- 微子・微仲・比干・箕子・膠鬲:いずれも殷末期の忠臣。紂王に仕えながらも道義を守り、歴史に名を残した賢人たち。
- 尺地(せきち):一尺四方の土地。天下すべてが殷の領土だったことを象徴。
- 百里四方:文王が治めていた周の領地の小ささを示す。
パーマリンク(英語スラッグ案)
context-matters-in-judgment
(評価には背景が重要)greatness-limited-by-age
(偉業は時代に縛られる)why-wenwang-couldnt-rule
(なぜ文王は王者になれなかったか)
この「1-3」は、前項までの議論を深め、人物評価における「視座の高さ」や「歴史観」の重要性を教えてくれる貴重な章です。
1. 原文
曰、王何可當也。
由湯至於武丁、賢聖之君六七作、天下歸殷久矣、久則難變也。
武丁朝諸侯、有天下、猶運之掌也。
紂之去武丁未久也、其故家遺俗、流風善政、猶存者。
又有微子、微仲、王子比干、箕子、膠鬲、皆賢人也。
相與輔相之、故久而後失之也。
尺地莫非其有也、一民莫非其臣也。
然而文王起於方百里、是以難也。
2. 書き下し文
曰く、王たること、何ぞ当たるべけんや。
湯より武丁に至るまで、賢聖の君、六七人作る。
天下、殷に帰すること久し。久しければ則ち変じ難し。
武丁、諸侯を朝(ちょう)し、天下を有つこと、猶お掌(たなごころ)を運(めぐ)らすがごとし。
紂の武丁を去ること、未だ久しからず。
その故家の遺俗、流風善政、猶お存する者あり。
また、微子・微仲・王子比干・箕子・膠鬲あり。皆、賢人なり。
相与に之を輔相す。故に久しくして後に之を失うなり。
尺地もその有に非ざるはなく、一民もその臣に非ざるはなし。
しかるに文王は、方百里より起こる。これを以て難しとなすなり。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- (孟子が言う)「王者となることがどうして簡単にできようか。」
- 「湯王から武丁に至るまで、賢明な君主が六、七人も出て、長年にわたって天下は殷のものとなっていた。」
- 「長く続いたものは、変えるのが難しいのだ。」
- 「武丁は諸侯を朝廷に従わせ、天下を掌中に収めていた。まるで手のひらを動かすように思いのままだった。」
- 「暴君・紂王は武丁からまだ時間があまり経っておらず、」
- 「そのため、古い名家の伝統や、よい政治の風習がまだ残っていた。」
- 「さらに、微子・微仲・比干・箕子・膠鬲といった賢者たちがいた。」
- 「彼らが協力して殷の政治を支えた。だから、殷が滅びるのにも時間がかかったのだ。」
- 「当時、土地の一寸たりとも殷の所有でないものはなく、すべての人民が殷の臣民だった。」
- 「その一方で、文王が起こった周の地は、たった百里の小国だった。それゆえに、王業を起こすのは困難だったのだ。」
4. 用語解説
- 湯(とう):殷王朝の創始者。名君とされる。
- 武丁(ぶてい):殷王朝中興の主君で、最も繁栄した王の一人。
- 掌(たなごころ):手のひらのこと。掌握・運用が容易であることの喩え。
- 遺俗・流風・善政:前時代から伝わる良い風習や政治。
- 微子・微仲・比干・箕子・膠鬲:いずれも殷王朝の忠臣または王族で、道徳に優れた賢者とされる。
- 尺地(せきち):ほんのわずかな土地の意。
- 方百里(ほうひゃくり):一辺百里の領土=小国・弱小勢力。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
孟子は言った。「王者になるということが、どうして簡単にできるだろうか。殷の王朝は、湯王から武丁に至るまで、優れた君主が続いた。だからこそ、天下は殷に長く帰属し、支配体制は強固だった。」
「武丁はまさに天下を自由に支配していたし、その後の紂王の時代にも、先代の善政の遺風や良き家風、そして賢人たちの助けがあったため、殷が滅びるのは時間がかかった。」
「その殷に対して、文王は百里四方の小国から出発した。それがいかに困難なことか、想像に難くない。」
6. 解釈と現代的意義
この章句では、孟子が「王道を行う困難さ」と「文王の偉大さ」を説いています。
- 大勢に逆らうには、時間と徳が必要
支配体制が長く続いた国(殷)を覆すのは至難の業。環境や習慣、組織文化が深く根付いており、簡単には変えられない。 - 環境条件の差を認識する謙虚さ
孟子は、「斉で王者になるのは容易」といった自分の発言に対して、深く反省して弟子に説明し直しています。これは、軽率な期待や安易な理想論を戒める姿勢といえる。 - 草創期のリーダーの偉大さ
百里四方という小国から始めて、天下を統一するまでになった文王の徳と苦労は、現代でも「ベンチャー企業の創業者」などに通じるモデルであり、深く学ぶ価値があります。
7. ビジネスにおける解釈と適用
「成功の背後には“歴史”と“土壌”がある」
大企業や老舗ブランドが強いのは、それだけの土壌と積み重ねがあるから。新規参入者が「同じようにやれば勝てる」と思うのは危険。
→ 土壌の違いを見極めた戦略が必要。
「理想を語る前に、条件と背景を見よ」
孟子が弟子に語るように、「王道政治が簡単」だと考えるのは浅はか。ビジネスでも「成功モデルを真似る」際には、背景条件を精査する必要がある。
→ 経営会議や事業企画においても、前提条件の共有が重要。
「小さく始め、大義で貫く」
文王が百里の国から始めて天下を取ったように、小さな会社でも、大きな理想・信念を持って積み重ねることで社会を変える力になり得る。
→ ベンチャーや中小企業の創業理念に勇気を与える一節。
8. ビジネス用の心得タイトル
「土壌を見よ、歴史を識れ──理想を貫くには、背景理解と覚悟が要る」
この章句は、簡単に理想を語ることの危うさと、それを成し遂げるための背景・困難・積み重ねを認識せよという孟子の深い洞察を示しています。
コメント