心が動揺していると、ほんの小さなことにも不安や恐れを抱いてしまう。
たとえば――
弓の影を見ては蛇やサソリだと疑い、草の中の石を見ては虎が伏せていると思い込む。
このような状態では、見るものすべてが殺気をはらんで見え、心はますます恐れに染まってしまう。
一方、心が静まり、素直で落ち着いている者は――
暴虐な王(石虎)でさえ、海辺に舞うかもめのように柔らかな存在と見なし、
うるさい蛙の声すらも、鼓笛の調べのように耳に心地よく響く。
このように、心のあり方ひとつで、世界の見え方はまるで変わる。
“機動く”ときにはすべてに敵意を感じ、
“念息む”ときにはすべてに真実と和らぎを見る。
引用(ふりがな付き)
機(き)動(うご)く的(とき)は、弓影(ゆみかげ)も疑(うたが)いて蛇蝎(だかつ)と為(な)し、
寝石(しんせき)も視(み)て伏虎(ふっこ)と為す。此(こ)の中(なか)、渾(すべ)て是(こ)れ殺気(さっき)なり。
念(ねん)息(や)む的は、石虎(せっこ)も海鷗(かいおう)と作(な)すべく、
蛙声(あせい)も鼓吹(こすい)に当(あ)つべし。
触(ふ)るる処(ところ)俱(ことごと)に真機(しんき)を見る。
注釈
- 弓影を蛇蝎と為す:晋の楽広伝にある故事。弓の影を蛇と誤認し、病を患った例。
- 寝石を伏虎と為す:『史記』の李広伝より。石を虎と思い矢を放った話。
- 石虎を海鷗と作す:暴君・石虎も、仏僧の徳によって心を和らげたという寓意。
- 蛙声を鼓吹と当つ:孔珪の故事に基づく。騒音すら美音と聞こえる心の状態。
- 殺気:心が恐れや不安に満たされた状態。
- 真機(しんき):物事の真実のはたらき、本来の姿。
関連思想と補足
- 本項は、心の内面が外の世界の見え方に与える影響を示す名文であり、
『菜根譚』全体の核心ともいえるテーマ「心の修養」に通じている。 - 仏教でも「心がすべてを作る(唯心所現)」という教えがあり、
外界の現象は、内面の投影に過ぎないという見方と一致している。 - 現代心理学でも、**ストレスや不安が認知を歪めること(認知バイアス)**が知られており、
本項は数千年前から伝えられてきた“心の取り扱い方”の知恵ともいえる。
コメント