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形を捨てて、心を清めよ


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■引用原文(日本語訳)

第十章 暴力(ダンダヴァッガ)第141偈

裸かの行も、髻(もとどり)に結うのも、身が泥にまみれるのも、
断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲(うずくま)って動かないのも、
疑いを離れていない人を浄めることはできない。

(『ダンマパダ』第141偈)


■逐語訳

  • 裸かの行:衣服を捨てて裸で修行する苦行の一種。
  • 髻に結う:頭髪を編んで高く結う修験者的な象徴的スタイル。
  • 泥にまみれる/塵を塗る:身体を不潔に保つことで「世俗を捨てた」姿勢を表す苦行。
  • 断食・露地臥・蹲る:極端な節制、地面に直接寝ること、動かずに苦行に耐える態度。
  • 疑いを離れていない人:真理や教えへの理解と信念が伴わず、形式に囚われている者。
  • 浄めることはできない:外見的な修行では、内なる迷い・欲・執着を清めることはできないという教え。

■全体の現代語訳(まとめ)

どれだけ苦しみに満ちた修行をしていても――裸で歩こうが、泥にまみれようが、断食しようが――
もしその人が真理を疑い、自らの心を見つめていなければ、
それらの行為によって「浄められる」ことはない。


■解釈と現代的意義

この偈は、外見・形式・パフォーマンスによる修行を厳しく批判するものです。
仏教の本質は、心の内面にある迷いや執着を見つめ、智慧によって解き放つことにあります。

人々はしばしば「見た目」「慣習」「見せかけの努力」に依存しますが、
ブッダはここで、「どれだけ厳しいことをやっていても、心が清まっていなければ意味がない」と明言しています。


■ビジネスにおける解釈と適用

観点適用例
見かけ倒しの努力主義長時間労働・根性論・自己犠牲を前面に出すが、仕事の本質を見ていない人は、信頼されない。
肩書や形式への依存権威ある肩書や業界トレンドに乗ることばかりに注力し、真の価値を創造できていないケースに警鐘。
自己成長と内省の重視成果の数字よりも、「自分はなぜこれをするのか?本当に善い行いか?」と心を問うことが、長期的に人格と評価を高める。

■心得まとめ

「浄まりとは、心が離欲と真理に向くときにのみ訪れる」

外見的な努力や形式的な厳しさは、一見「ストイック」や「尊敬される」ように思えるかもしれません。
しかしブッダは、それが真理を見極め、疑いを離れたものでなければ、浄化には至らないと説いています。

私たちの日常や仕事においても同じです。
見せかけの努力や苦労ではなく、「正しく心を向けているか」が、すべての価値を決める。
その意識こそが、内面の成熟と本当の信頼を築くのです。


この偈は、「心の浄化とは何か」という仏教の核心を突いています。

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