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欲よりも志を――狩猟に己を任せぬ君の徳
貞観十四年、太宗は沙苑に出かけ、自ら猛獣を射る狩猟を行った。朝早く出発し、夜遅くに戻るという無理を押しての行幸だった。 これに対し、特進・魏徴が歴代の故事を引用して諫める。 『書経』は、周の文王が狩猟を慎んだことを褒めている。 『春秋左氏伝... -
諫言は、剛よりも柔に宿る――君を動かすのは言葉の品格
貞観十一年、太宗は狩猟のため懐州を訪れた。その際、一通の上封書が届き、こう記されていた。 「どうして山東の民を苑や宮殿の造営に従事させるのか。今の民の苦しさは隋と変わらぬ。たびたびの狩猟は、わがままな君主の証。今また懐州で狩りをしているが... -
機知と諫言の妙――瓦の傘で諫める忠臣の心
ある日、太宗が狩猟に出かけた際、途中で雨が降ってきた。太宗が「雨具はどうすれば漏れないだろうか」と尋ねると、諫議大夫・谷那律はこう答えた。 「瓦で作れば、決して漏れません」 この一言には、「陛下には野外ではなく瓦屋根のある宮殿(=政務)に... -
帝王の身は天下の柱――狩りに慎みを
貞観年間、太宗は狩猟を好んだが、秘書監・虞世南がそれを諫める上奏文を提出した。 虞世南は、まず古来より秋冬における狩猟が伝統として行われてきたこと、そして太宗が民を害する猛獣を倒し、その皮革を軍事資源として活用していることを評価しつつも、... -
足るを知ることが、帝王の品格である
貞観十二年、太宗が東方への狩猟の旅に出て洛陽へと向かう途中、顕仁宮に滞在した際のこと。そこで、離宮の管理官たちが多数処罰された。その理由は、太宗への進物が少なかったり、食事の準備が行き届かなかったからであった。 この事態を見て、魏徴が厳し... -
君の命運は、天ではなく己の行いにあり
貞観十三年、太宗は側近の魏徴らに語った。 「隋の煬帝は、父・文帝の豊かな治世を受け継いだ。関中にとどまり民を安んじていれば、隋は滅ぶことはなかっただろう。だが彼は、民を顧みず、諫言を拒み、行幸に耽った。江都に向かい、忠臣・董純や崔象の言葉... -
君主の驕りと、臣下の沈黙――それが滅亡を招いた
貞観十一年、太宗が洛陽の離宮で遊覧中、煬帝が築いた池と宮殿を見ながら、側近たちに語った。 「煬帝はこれらを造るために民を酷使し、民の暮らしより自身の贅沢を優先した。詩人が詠んだ『どの日も軍が動き、織機が空になった』という言葉は、まさにその... -
奢りの離宮は、国を支える民を蝕む
貞観の初年、太宗は側近たちに、自らが目にし耳にした隋煬帝の末路を引き合いに出し、こう戒めた。 「隋の煬帝は、長安から洛陽、幷州から涿郡に至るまで、道の両側に離宮を建て、街路樹を植え、行幸に耽った。だがその背後で、人民は果てしない労役に苦し... -
根を忘れて枝を育てるなかれ――異民族政策における慎重の道
貞観四年、唐の名将・李靖が突厥を破り、多くの突厥部族が降伏してきた。太宗はこの機に、北方安定のための方策について臣下と協議を行う。 二つの相反する立場 温彦博の主張:突厥遺民を中国領内のオルドスに住まわせ、部族のまま保護することで恩義を施... -
慎みこそ、帝王の美徳である
貞観二十二年、度重なる軍事遠征と宮殿建設により、唐の民は疲弊していた。そのとき、内官である徐氏は一人の女性として、誠意と知恵に満ちた上奏を太宗に捧げた。 彼女は、こう訴えた。「民は今、風雨に恵まれ、平穏な暮らしを得ています。陛下の功績は、...