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学ばぬ者は、壁の前に立つがごとし
学ばなければ、判断の軸も持てない 唐の太宗は、戦乱の時代には本を読む暇もなく、ただ経験の中で行動していた。しかし、天下が太平となった今、読書を通して過去の聖賢の教えに耳を傾け、初めて自らの過ちに気づけたと述懐する。 「学ばぬ者は、塀に向か... -
歴史に恥じぬよう、三つの戒めを守る
評価を恐れるのではなく、記録に耐えうる行動を 貞観十六年、太宗は自身の行動が史官にどう記されているかを褚遂良に尋ねた。褚遂良は「善い行いも過ちも、史官は包み隠さず記す」と答えた。 太宗はそれを受けて、悪く書かれないよう自らが努めている“三つ... -
忠義を疑う者は、信を断つ者なり
人を信じるとは、その過去をも超える覚悟である 魏徴が謀反を企んでいると讒言されたとき、太宗はそれを一蹴した。魏徴はかつて太宗の敵である兄・建成の配下だった――にもかかわらず太宗は、彼の忠義を認めて重用していた。「彼がかつて敵だったからこそ、... -
小さな過ちを暴く者、大きな信を失う
忠言は正義ではなく誠意から 太宗は、進言の道を開いたのは忠義の声を聞くためであり、告発合戦の場とするためではないと強く訴えた。多くの者が同僚の小さな過失を封書で告発してくるが、それは真の忠義ではなく、讒言にすぎない。君主が臣下を疑い始めた... -
批判の刃が向く先を見誤るな
正義を装った言葉でも、志がなければただの分断となる 唐の太宗のもとに、「一人が多くの職を兼ねるのは不適切」とする『抜士論』という文章が提出された。筆者・陳師合は、あたかも公平を説くかのように見せながら、実際には杜如晦らを名指しせずに批判し... -
近き者の影響を侮るなかれ
人は誰の近くにいるかで変わる 若き日の皇太子がどのような人物と交わるか――それが後の人格形成と国家の命運を左右する。唐の太宗は、皇太子時代に柴紹や竇誕と交遊したが、彼らから悪い影響を受けなかったのはなぜかと問い、自らを省みた。それに対して名... -
第二章 隋の佞臣は唐になっても変わらない
一、現代語訳 貞観7年(633年)、太宗が**蒲州(現在の山西省南部)に巡幸(視察)**した時のこと。 その地の刺史(長官)趙元楷は、地元の高齢者たちに黄色い薄絹の単衣を着せて沿道に並ばせ、自らも同じ服で太宗を迎えた。また、役所の建物を豪華に飾り... -
第一章 讒言をする者は国の害虫
一、現代語訳 貞観の初年、太宗は側近たちにこう語った。 「歴代の讒言(ざんげん:他人を陥れる虚言)やご機嫌取りの者たちを見れば、皆、国家にとっての害虫だ。彼らは口が巧みで表面上は人当たりがよく、裏では徒党を組む。暗愚な君主や凡庸な支配者は... -
第三章 雄弁は決して良いことではない
一、現代語訳 **貞観十六年(642年)**のこと。太宗は日頃、大臣たちと過去の政治について議論する際、話の細部にこだわり、問い詰めたり反論を重ねたりしていた。 この様子に対し、**散騎常侍・劉洎(りゅうき)**が上奏文を提出して、次のように諫めた。... -
第二章 天子の過ちは日食・月食のように皆が見る
【現代語訳】 貞観八年(634年)、太宗は側近にこう語った。 「言葉というものは、君子の要(かなめ)であり、安易に口にすべきではない。たとえ一般の庶民であっても、一言の過ちがあれば、他人はそれを覚えていて、恥や災いを招くことになる。ましてや天...