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礼を欠いた勝利に、正義は宿らない
貞観十四年、唐の将軍・侯君集は高昌国を討伐する任にあった。敵国の王・麴文泰の葬儀の日取りが知らされ、配下はその機に乗じて急襲すべきだと進言した。だが、侯君集はこれを拒んだ。 「天子が我々を遣わしたのは、傲慢な国を誅するため。その使命を受け... -
虚名のために、民を苦しめてはならない
貞観五年、中央アジアの康国が唐に属国となることを申し出た。だが太宗は、その申し出を毅然と断った。 「歴代の帝王たちは、土地を広げて名を残そうとしたが、それは民を苦しめるだけのことであった。仮に自分の利益になったとしても、人民に損があるのな... -
戦の勝利より、戦を避ける知恵を尊べ
貞観四年、林邑から無礼な文書が届いたとの報告を受け、官僚たちは討伐を願い出た。しかし太宗は、毅然としてこれを退けた。 「兵とは凶器、やむを得ない時にのみ用いるべきものである。光武帝は『一度兵を動かせば、気づかぬうちに白髪になる』と言った。... -
兵を動かす前に、言葉を尽くせ
嶺南で反乱の報が上がったとき、太宗は討伐の兵を起こそうとした。だが、魏徴は進言した。「戦乱で疲弊した今、険地に兵を送るのは得策ではありません。まずは使者を送り、誠意を示して話し合うべきです」と。 魏徴の言葉通り、太宗は一人の使者を遣わすに... -
強者の真の力は、恐れぬ姿勢にあらわれる
突厥の大軍が唐の都・長安の北に迫ったとき、太宗は城に籠ることなく、単騎で渭水を越えて敵将に向き合った。周囲が慎重策を提案する中、太宗はあえて出軍し、国を守る覚悟と気迫を示した。 敵は、太宗の即位直後の混乱を突いて攻めてきた。だが太宗は、堂... -
民を削って栄える国は、やがて骨まで尽きる
北周と北斉の最後の皇帝は、ともに国を滅ぼした。だがその末路の原因には違いがあった。唐の太宗は、北斉の後主が贅沢に溺れ、倉庫の財を使い果たし、過酷な課税で民を苦しめた様子を「自分の肉を喰らうが如し」と評した。やがて肉が尽きれば死ぬのは当然... -
勝ち続ける国ほど、滅びに近づく
勝ち戦に酔いしれると、君主は驕り、民は疲れる。それは、国の滅亡へと直結する危うい道である。 唐の太宗は、困窮した突厥の現状を聞き、「人民を顧みず、私欲に走り、忠義を重んじぬ者に国は保てぬ」と語った。魏徴は続けて、戦国の名将・李克の言葉を引... -
恩義を忘れた者は、自らの滅びを招く
善を積む者には福が、悪をなす者には災いが訪れる。それは光が形に影を生じさせ、音が音色を返すように、必然の理である。 突厥の啓民可汗が隋に助けを求めたとき、隋の文帝は国を挙げて彼を助け、地位を保たせた。だが、後継者たちはその恩を忘れ、報いる... -
倉を満たすより、民を満たせ
太宗は、隋の滅亡の一因が、民より倉庫を重んじた統治にあったと見抜いた。文帝は凶作の年に倉を開かず、飢えた人民を他所へ移して見殺しにした。その結果、国庫は豊かになったが、民の心は離れた。その富を受け継いだ煬帝は、奢り高ぶり、ついに国を滅ぼ... -
力で治めても、心を得なければ続かない
秦も周も天下を取った。しかし、命運の長さはあまりに違う。その違いは、単に「取る」方法ではなく、「治める」姿勢にあった。 唐の太宗は、周の武王と秦の始皇帝の事例を引き合いに、こう説いた。周は殷を倒した後、仁義を広めて人々の心を得ようとしたが...