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奢りの離宮は、国を支える民を蝕む
貞観の初年、太宗は側近たちに、自らが目にし耳にした隋煬帝の末路を引き合いに出し、こう戒めた。 「隋の煬帝は、長安から洛陽、幷州から涿郡に至るまで、道の両側に離宮を建て、街路樹を植え、行幸に耽った。だがその背後で、人民は果てしない労役に苦し... -
根を忘れて枝を育てるなかれ――異民族政策における慎重の道
貞観四年、唐の名将・李靖が突厥を破り、多くの突厥部族が降伏してきた。太宗はこの機に、北方安定のための方策について臣下と協議を行う。 二つの相反する立場 温彦博の主張:突厥遺民を中国領内のオルドスに住まわせ、部族のまま保護することで恩義を施... -
慎みこそ、帝王の美徳である
貞観二十二年、度重なる軍事遠征と宮殿建設により、唐の民は疲弊していた。そのとき、内官である徐氏は一人の女性として、誠意と知恵に満ちた上奏を太宗に捧げた。 彼女は、こう訴えた。「民は今、風雨に恵まれ、平穏な暮らしを得ています。陛下の功績は、... -
進むべきでない時に退く知恵こそ、真の忠義である
貞観二十二年、太宗が再び高句麗への遠征を決意したとき、重病に伏せていた老宰相・房玄齢は最後の力を振り絞り、命を賭して諫めの上奏を行った。 彼はこう訴えた。「今、天下は安定し、唐の徳は遠く夷狄にまで及んでいます。突厥・高昌・吐谷渾などのかつ... -
兵は備えるもの、好むものにあらず
太宗が著した帝王指南書『帝範』には、軍備の本質について明確な思想が記されている。 「兵器とは国家の凶器である。戦を好めば民は疲れ、備えを怠れば民は危険にさらされる。だから、戦わずとも備え、民に戦を教え、用意を怠らないことが肝要なのだ」 越... -
好機を逃さず、決断すれば勝機は開ける
貞観十九年の高句麗遠征において、太宗に従った江夏王・李道宗と李勣は、先鋒として蓋牟城を攻め落とした。その直後、敵の援軍が大挙して到着するも、唐軍内では「太宗の到着を待ってから進もう」という慎重論が広がった。 しかし、道宗はこれに真っ向から... -
帝自ら剣を抜くとき、国の背は無防備になる
貞観十九年、太宗は自ら高句麗を討つため、親征を決意した。そのとき重臣・尉遅敬徳は、進言を上げて諫めた。 「陛下が遼東へ出征されれば、皇太子が定州で政務を預かり、都の長安や洛陽、国の倉庫が手薄になります。遼東は遠方であり、かつて隋の煬帝が同... -
勝つことより、負けたときの執念が国を傾ける
貞観十八年、太宗は高句麗の泉蓋蘇文が主君を殺し、民を苦しめていることに怒り、討伐を計画した。それに対し、諫議大夫の褚遂良は静かに、しかし深い憂慮を込めて進言した。 「陛下の英略は誰にも及びません。過去、隋末の群雄割拠を平定し、突厥や西域の... -
「武」とは、戦うことではなく、戦いを止めることにある
高句麗の泉蓋蘇文が自国の王を殺し、政権を奪ったという報告を受けたとき、太宗は怒りを覚えた。軍の力で討つことは可能だとしつつも、すぐには兵を動かさず、間接的な対応を検討した。 このとき、重臣・房玄齢はこう諫めた。「古より、強き国は弱き国を侵... -
剣より縁を選ぶことが、真の民のためになる
貞観十六年、太宗は北方の強国・薛延陀に対し、二つの選択肢を提示した。一つは十万の精兵をもって討伐し、武力で服従させること。もう一つは、皇女を嫁がせて通婚し、平和を築くこと。 太宗は語った。「民の父母たる者として、人民の安寧をもたらせるなら...