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義に非ずんば取らず――伊尹に見る「志の潔さ」
孟子は、伊尹(いいん)が料理人として湯王に取り入ったという俗説をきっぱりと否定する。伊尹は、義(ぎ)にかなわない行動や、道(みち)に外れた行いを絶対にしなかった人物であり、天下を与えられようと、四千頭の馬を差し出されようと、動じなかった... -
位を譲るも、継がせるも――すべては天の義にかなう道
孟子は、堯・舜による賢者への禅譲と、夏・殷・周に見られる血縁による継承(継嗣)とを対立的に捉えるべきではないと語る。賢者に譲ることも、子に継がせることも、天命に基づいていればその「義」は等しく正しいのである。その証として、伊尹(いいん)... -
天命は人の力を超えて働く――徳のみでは天下を得られぬ理由
孟子は、舜・禹・益の継承と、その子や後継者たちの賢不肖の違いを通して、天命と人力の限界を明確に説いた。舜や禹のような人物が天下を得たのは、高い徳と、天子からの推薦という二つの条件が揃っていたからであり、孔子が天下を得なかったのは、徳はあ... -
天下は「子」か「賢」か――天が選ぶのはその時ふさわしき者
孟子は、禹(う)が賢者に位を譲らず子に伝えたことを「徳の衰え」と見る通俗の見方を否定する。天は賢者に与えるべきときは賢者に、子に与えるべきときは子に与えるのだと説く。その判断基準は天自身が下すものであり、誰が実際に支持され、受け入れられ... -
民が望むところに天意が宿る――舜の即位と天命の可視化
孟子は、舜が天子となった過程において、天意と民意が一致したことをもって、正統性の根拠とした。天が与えるとは、神々がその祭祀を受け入れ、政治が安定し、民が安心することで現れる。天は言葉を持たず、民の受容を通じてその意志を示す。堯の子を差し... -
天下は授けるものにあらず――天は言わず、行いで応える
孟子は、堯が舜に「天下を与えた」という表現に対し、それは誤解であるときっぱり否定する。天下は人が与えるものではなく、天がその人物の「行い」と「応じた結果」をもって与えるものだ――これが孟子の天命思想である。舜が天子になったのは、堯の推薦と... -
言葉に囚われず、心で読む――『詩経』の真意を汲み取ること
孟子は、『詩経』の言葉を文字通りに理解しようとする咸丘蒙に対し、文章の表面ではなく、その背後にある意志と趣旨を読み取ることの大切さを説いた。舜が天子になった後も、父・瞽瞍を「臣下」とはしなかったのは、形式よりも親を尊ぶ心と孝の極致を重ん... -
「二人の天子」はありえない――天下安んじるための秩序と理
ある「古語」によれば、舜が南面して君主となったとき、父の瞽瞍(こそう)も帝堯(ていぎょう)も舜に臣下の礼をとったという。そして孔子さえもそれを「天下の危機」と評したとされる。だが孟子はこの話をきっぱりと否定する。それは君子の言葉ではなく... -
親しみを絶やさず、権力は預けず――仁義を成すための聖人の知恵
弟・象が「不仁」であることをよく知りながら、舜は象をそのまま君主にはせず、官吏を派遣して実権を制限した。それでも形式的には象を一国の君とし、富貴を与えた。ここに舜の「仁」と「義」の両立――家族愛と民への責任を同時に果たす、極めて知的なバラ... -
君子は、怒りも怨みも留めぬ――弟を富貴にする「真の親愛」
舜は、自身を何度も殺そうとした弟・象を罰するどころか、有庳(ゆうひ)という国に封じて君にした。その姿勢は一見、不公平にさえ見えるが、孟子は言う――それこそが仁の極みなのだと。君子は怒りを隠さず、怨みを心に留めず、ただ「親愛」に徹する。愛す...