未分類– category –
-
熱のあとに冷を知り、騒のあとに静の滋味を知る
夢中で駆け抜けた時間も、あとから振り返ってみれば、果たして本当に意味があったのかと疑問が湧く。熱に浮かされたように奔走した日々――それは実のない空回りだったと、冷静な今になってはじめて気づくものである。また、あくせくと煩雑な状況を抜け出し... -
やめたいと思ったそのときが、“やめどき”である
「もうやめたい」と思ったその瞬間こそが、最良のタイミング――その感覚を信じてすぐに行動すべきである。迷いながらも「いずれ良い時期が来たらやめよう」と考えていると、結局やめるきっかけを逃し、ずるずると続けることになる。たとえば、「息子に嫁を... -
「悟り」は枯れではない――空を装うことは空にあらず
灯は燃え尽き、衣は破れ、身も心も冷えきって――それで「悟り」と言えるだろうか。確かに簡素や静けさは尊い。しかし、それが行き過ぎると、ただの演出となり、空虚さを装った“もてあそび”にすぎなくなる。身体は枯れ木のように無反応、心は死んだ灰のよう... -
火花のような一生に、角の上で争う愚かさ
人生とは、石と石がぶつかって瞬間に飛び散る火花のように、あっという間に過ぎ去るもの。それほど短い一生であるにもかかわらず、人は「自分の方が少し勝っている」「相手の方が少し劣っている」と、わずかな差を競い合っては争っている。また、この世の... -
山河さえ崩れるなら、地位や財産は影のまた影
大地や山河といった雄大な自然でさえ、時がたてば微塵となり形を失う。その自然よりはるかに小さな人間など、まさに「塵中の塵(ちりの中のちり)」にすぎない。血と肉から成るこの身体でさえ、水の泡や物の影のようにはかなく消える存在なのに、ましてや... -
一を知って万に通ず――本質を見抜けば世界が手の中に入る
一つの物事の真の趣(おもむき)を深く理解すれば、その理解はやがて世界全体へと広がっていく。たとえば、ただ一つの風景を通して自然の美の本質を知るならば、遠く離れた五湖の霞む月影すら、心の中に自在に呼び寄せることができる。また、今目の前にあ... -
楽しみには“頃合い”がある――切り上げる勇気が余韻を生む
賑やかな宴も、時を見誤れば興ざめの場と化す。友や客が雲のように集まり、大いに飲んで騒ぐ――それは一見、人生の大きな楽しみのように思える。だが、夜が更け、酒が切れ、香も消え、茶も冷める頃には、場がだらけはじめ、わけのわからぬ人が泣き出したり... -
欲を離れ、琴と書に囲まれて心は仙境へ至る
心に物欲がなくなれば、そこはもう天高く晴れ渡った秋空や、雨のあとの静かな海のように澄みきっている。何かを手に入れよう、誰かに勝とう――そんな思いが消えたとき、心には一切の濁りがなくなり、深い静けさが訪れる。もし、そのそばに一張の琴と一冊の... -
文字や形だけでは、真の趣はつかめない
文字のある書は読めても、文字のない書(自然や沈黙の中にある真理)を読むことができない。弦の張った琴は奏でられても、弦のない琴――つまり、音なき中にある調べを感じ取ることはできない。人は目に見えるもの、手で触れられるものばかりを信じ、それを... -
草花も鳥の声も、真理を伝える師となる
自然界のすべては、私たちの心に宇宙の真理をささやきかけている。鳥のさえずりも虫の音も、ただの雑音ではない。それは目に見えぬ真理を静かに伝える「心の言葉」である。また、一枚の花びらや一色の草の緑さえも、天地の道を語る「文章」として読むこと...