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人の本性は善――迷わせるのは外の力にすぎない
孟子はこの章で、性善説の立場を明確にしつつ、他の三説に正面から反論します。多くの人が「善にも不善にもなり得る」「人には善悪のタイプがある」と考える中、孟子は一貫して主張します―― 人の“本性”とは、善を行おうとする「情」そのものである。不善を... -
義もまた内にある――場面ごとの行動の違いは心の働きの表れ
義とは、内なる「敬う心」が外に現れたものにすぎない。孟子の弟子・公都子は、「義は外にある」とする告子派の孟季子の詰問に一度は言い負かされるが、孟子は巧みな比喩と反証によってその誤りを論破する。孟子の立場は一貫しており、たとえ水かけ論に見... -
仁と義はともに心のはたらき――人間の道徳は本性に根ざす
仁と義は、どちらも人の内心から発するものであり、区別されるものではない。告子が「仁は内、義は外」と区別し、道徳の外在性を主張したのに対して、孟子はそれを徹底して否定し、仁義は同根であり、人間の本性に由来するものであると力強く主張する。 孟... -
本性(性)を曖昧にするな――議論を貫く知恵と気概
人間の「性」は、単なる生まれのままの状態ではない。 告子が「性とは生(いのち)そのもの」だと一般化して論じたのに対し、孟子は論点を鋭く絞り込み、相手の主張を突き崩すことで、自らの性善説を守ろうとした。 そのやりとりには、単なる概念論ではな... -
人の本性は善――外力による歪みであって、本性ではない
人間の本性は善である。それはあたかも水が自然に低いほうへ流れるように、人は自然と善を求める傾向にあるというのが孟子の信念である。告子が「人の性には善不善の区別はなく、環境によっていかようにも変わる」と主張したのに対して、孟子は水の「上下... -
人の本性は仁義に通ず――それを否定する言葉こそが害となる
人間の本性は、あらかじめ善を内に宿すものである。それを否定し、外からの加工によってしか善(仁義)は生まれないとする考え方は、本性を破壊しなければ道徳が生まれないという誤った信念を生み、人々の倫理観を損なう危険な教えである――孟子はそう強く... -
卿たる者の覚悟――諫め、改め、あるいは去る
地位ある者には、それぞれの立場に応じた責任と覚悟が求められる。とくに卿(けい)――国家を支える重臣は、君主の過ちを正すために存在している。その職責は、親族か否かによって異なるが、いずれも「正義のために言葉を尽くす」ことを根本にしている。 同... -
古人を友とする――尚友のこころ
優れた人物は、自らと同じ高みにある者と交わる。それが一地方、一国、天下――いずれの段階であっても、志を共にする相手を友とすることが、人格の成長と精神の高揚に不可欠である。そして孟子はさらに進めて説く――現代に生きる友だけでは足りないならば、... -
義は道、礼は門――正しき道を歩む者は、形式にも魂を求める
賢人とは、ただ理を語るだけでなく、義と礼をもってその身を整える者である。形式が正しくなければ、命をかけても従わない。これは傲慢ではなく、誇りと節義の現れであり、君主の側にもその理解と礼節が求められる。 孟子は、斉の景公が猟の場で虞人(狩場... -
君と賢者は友にあらず――地位と徳の秩序をわきまえる
位によって上下が定まる関係において、君主と臣下が「友」となることはあり得ない。しかし、徳によって上下が逆転するならば、君主であっても賢者を師として敬うべきであり、ましてや呼びつけてはならない。 孟子は、魯の繆公(ぼくこう)が子思にたびたび...