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混乱の中でこそ真の忠誠があらわれる
貞観九年、蕭瑀(しょうう)は尚書左僕射(政府の副長官)に任じられていた。ある日、宴席で太宗は房玄齢に対して語った。 「武徳六年以降、父の高祖は、私の兄(皇太子・建成)を廃しようとしていた。そのころ私は兄弟から憎まれており、たとえ大きな功績... -
諫臣はただの官僚ではない――皇帝の鏡となる者である
貞観八年、太宗は地方統治の実情を把握するため、全国各地に「黜陟使(ちゅつちょくし)」を派遣しようとした。この任務は、地方官の善政・失政を評価し、必要があれば罷免・登用を行う極めて重要な役目である。なかでも首都・長安周辺の畿内道の監察官を... -
忠義を疑う前に、善を愛する心を持て
貞観八年、桂州都督・李弘節が亡くなった後、その遺族が珠玉を売りに出したことが朝廷に伝わった。太宗はこれを聞き、朝臣たちに向かって、「李弘節は生前、清廉だとされていたが、遺族が財貨を持っていたとなれば、その清廉さを推挙した者にも責任がある... -
忠言は個人のために非ず、社稷(しゃしょく)のために尽くすもの
貞観六年、太宗は陳叔達に礼部尚書の官職を授けるにあたり、かつての忠言への感謝を述べた。「武徳年間、兄弟たちが私を排斥しようとしたとき、そなたは高祖に進言し、私の功績を認め、排除すべきではないと説いてくれた。私の性格が剛烈であることから、... -
忠義は時代を選ばず、志は滅びても名は朽ちず
貞観五年、太宗は側近たちに語った。「忠義の臣、節義の士は、いつの時代にもいるものだ。では、隋の時代には誰がいたか」――この問いに、王珪は三人の忠臣を挙げ、その行動を報告した。 まず一人目は、太常丞・元善達。混乱の続く隋末、都にいた彼は、各地... -
忠義は生者のためだけにあらず、死者を悼む礼にもあらわれる
貞観二年、玄武門の変で命を落とした太宗の兄・李建成(息隠王)と弟・李元吉(海陵王)の葬儀が行われることとなった。そのとき、かつて建成に仕えていた魏徴と王珪が、葬儀への参列を願い出た。 二人はかつて皇太子に忠誠を尽くし、朝廷に仕えていた旧臣... -
忠義とは、剣より鋭く、礼をもって貫く勇気である
貞観元年、太宗・李世民はある日の談話で、隋末の義士・姚思廉について語った。「白刃に臨んでも怯まず、忠節を示した彼の気骨は、古人にも劣らぬ」と感嘆した太宗は、遠く洛陽にいた思廉へ、絹三百疋を贈り、その忠義への敬意を伝えた。 その忠義のいきさ... -
敵であっても、忠義ある者は赦され、重んじられる
玄武門の変において、隠太子・李建成と斉王・李元吉に仕えていた馮立と謝叔方は、敵対する立場でありながらも、それぞれの主君への忠義を貫いた。唐太宗・李世民は、その忠義を正当に評価し、敵であったにもかかわらず彼らを赦し、重用した。 馮立は李建成... -
仁義は、政治と人生を支える精神の糧である
貞観十三年、太宗は側近に語った。「深い森に鳥が棲み、広い水には魚が泳ぐ――同じように、仁義が積み重ねられた世の中では、人々は自然とそこに集い、安らかに暮らすようになる」 人は災いを避けようと努めるが、本当に災いを遠ざける手段は、仁義を行うこ... -
真の武器は、兵ではなく仁義である
貞観四年、重臣・房玄齢が太宗に武器庫の充実を報告した。「今、我が国の兵器は隋の時代よりもはるかに整っております」と。 それに対し太宗はこう返した。「確かに武器を整え、敵に備えるのは重要である。しかし、私が本当に頼みにしているのは、お前たち...