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若き王子の模範――韓王李元嘉の質素と孝友
**韓王 李元嘉(り げんか)**は、高祖李淵の第十一子であり、太宗の弟にあたる人物である。 わずか十五歳で地方長官(潞州刺史)に任ぜられ、幼くして政務に就いたが、その人格はすでに王者の器を備えていた。 あるとき、赴任中の潞州で、母の病を知ると... -
血を分けた兄への情――虞世南、命を賭した兄弟愛
**虞世南(ぐ せいなん)**は唐初の名臣であり、文才と書の名手としても知られるが、その人格の根底には、**深い「兄弟愛」**があった。 彼ははじめ**隋に仕え、起居舎人(皇帝の言動を記録する役職)**として職にあった。 貞観以前、宇文化及(うぶん か... -
親は実の親だけではない――房玄齢の継母孝行
唐の名臣房玄齢(ぼう げんれい)は、実母ではなく継母に仕えていたが、その態度は、実の親に対するものとなんら変わらず、むしろ人並み以上に誠実であった。 継母が病気になると、玄齢は医者が来るたびに門まで出迎え、涙を流して礼を尽くした。医者に対... -
敵味方を超えて忠義は尊ばれる――太宗の公正なる賞賛
貞観十九年、太宗は大軍を率いて高句麗(こうくり)遠征に赴き、遼東の要衝である**安市城(あんしじょう)**を包囲した。高句麗の将兵たちは命がけで抗戦し、城は堅固に守られていた。 唐軍は、すでに降伏した高句麗の褥薩(じょくさつ)=地方長官、**高... -
忠義の血脈を絶やすな――功臣の子孫にも慈悲の光を
貞観十五年、太宗はある日、政務の合間に歴史書を繙(ひもと)きながら、思いにふけった。忠臣や名臣が国家の危機を救い、あるいは命を捧げたその姿に、胸を打たれたのである。書を閉じた太宗は、ため息をつきながら、次のような**詔(みことのり)**を下... -
忠義の血は絶えず――父から子へ、忠烈の精神は継がれる
貞観十二年、太宗は中書侍郎(ちゅうしょじろう)の**岑文本(しん・ぶんほん)**に問いかけた。 「南朝の梁や陳に仕えた臣下のなかで、称えるべき人物はいるか。そして、今なおその子弟のうちで、朝廷に召し出すにふさわしい者はいないだろうか」 これに... -
忠義の価値は、順境ではなく逆境によってこそ証明される
貞観十二年、太宗は**蒲州(ほしゅう)**へ行幸した際、隋の旧臣・**堯君素(ぎょうくんそ)**の忠節を偲び、詔を発した。 堯君素は、隋の煬帝の時代に「鷹撃郎将(おうげきろうしょう)」という親衛の将官として仕え、要地である**河東地方(現在の山西省... -
忠臣は遇するに礼をもってすべし
貞観十一年、太宗は歴史の逸話を引用して、忠義の士の絶滅を嘆いた。「昔、春秋時代に狄人(北方の異民族)が衛の懿公(いこう)を殺し、その肉をすべて食らったが、肝だけは残した。そのとき、臣下の弘演(こうえん)は天に向かって号泣し、自らの腹を割... -
死してなお名を残す、それが真の忠義である
貞観十一年、太宗は後漢の忠臣・**楊震(ようしん)**の墓を訪れた。楊震はかつて太尉(最高位の大臣)を務め、清廉かつ剛直な人物として知られていたが、冤罪により早世した。 太宗はその忠義に心を打たれ、「忠を尽くしたにもかかわらず天命を全うできな... -
混乱の中でこそ真の忠誠があらわれる
貞観九年、蕭瑀(しょうう)は尚書左僕射(政府の副長官)に任じられていた。ある日、宴席で太宗は房玄齢に対して語った。 「武徳六年以降、父の高祖は、私の兄(皇太子・建成)を廃しようとしていた。そのころ私は兄弟から憎まれており、たとえ大きな功績...