未分類– category –
-
第五章「度を外れた贅沢な葬儀は禁止」解説
◆ 現代語訳と要旨 貞観十一年(637年)、太宗は詔(みことのり)を発し、過剰な葬儀を厳しく禁じる政策を打ち出しました。 「私は聞いている。死とは、生命の終焉であり原初に還ること。葬とは、埋葬して人目から隠すことである。古代の風習では、墓に盛り... -
第四章「五胡十六国の君主の教訓」解説
◆ 現代語訳 貞観十六年(642年)、太宗が側近に語った。 「最近、私は劉聡の伝記を読んだ。劉聡は、劉皇后のために立派な儀殿(式典用の宮殿)を造ろうとしたが、廷尉(司法長官)の陳元達が強くこれを諫めた。すると、劉聡は激怒して、陳元達を斬ろうとし... -
第三章「己の欲せざる所、人に施すなかれ」解説
◆ 現代語訳 貞観四年(630年)、太宗が側近たちに語った。 「宮殿を飾り立てたり、池に楼閣を設けて遊ぶのは、帝王としての私の望むことかもしれない。しかし、それは民衆が望むことでは決してない。帝王の『望むこと』は放縦な遊びだが、民にとってはその... -
第二章「漢の文帝に学べ」解説
◆ 現代語訳 貞観二年(628年)、王公・大臣たちが太宗に上奏した。 「『礼記』には、夏の終わり(旧暦の季夏=6月)には暑気を避けて高い建物に住むべしとあります。今はちょうど夏の残暑が厳しく、秋の長雨も始まり、宮中は低地にあるため湿気が多くてお... -
第一章「為政者の贅沢と民衆の気持ち」解説
◆ 現代語訳 貞観元年(627年)、太宗(李世民)は側近たちに語った。 「昔からの帝王は、建築など事業を起こす際には、必ず民衆の心に逆らわないことを第一とした。たとえば大禹が九つの山を削り、九つの大河を通して洪水を治めた時には、非常に多くの人民... -
第四章「項羽は信に欠けていた」
■現代語訳 貞観十七年(643年)のある日、太宗は側近に語りました。「『論語』には、『食を捨てても信を捨ててはならない』と記されている。孔子もまた、『民に信がなければ国は成り立たない』と述べている。 昔、項羽が咸陽(秦の都)に入ってすでに天下... -
第三章「今日あるは魏徴のお蔭」
■現代語訳 ある日、太宗は長孫無忌ら側近たちに語りました。「私が即位したばかりの頃には、多くの者が上奏を寄せてきた。ある者は、『君主というものは威厳が第一ですから、何事も陛下自らが独断で判断し、臣下には任せないようにすべきです』と進言し、... -
第二章「信用ほど大事なものはない」現代語訳と要点
内容要約: 魏徴が上奏で、国家の基本は「徳・礼・信」にあると説き、近年の朝廷において誠信が失われていることを強く諫める。 ポイント(要点): 「君主は礼を立てて臣下に接し、臣下は忠義で応える」ことが誠信の体現。 「民に信無くば国立たず」──誠... -
第一章 水源が濁れば川も濁る
■現代語訳 貞観の初年、ある者が上奏文を提出し、朝廷において皇帝に媚び諂うような佞臣を取り除くべきだと願い出た。 それに対して太宗は、その者に問いかけた。「私が現在任用している臣下は、皆賢者だと考えている。そなたは一体、誰が佞臣だというのか... -
法治主義よりは徳治主義 — 概要と核心
1. 背景:宦官の専横と魏徴の進言 貞観十一年、宦官を地方使者に用いることへの弊害から、魏徴がそれを諫め、太宗が「宦官を使者にしない」と宣言。これをきっかけに、魏徴は太宗の治政姿勢に対し、長大で包括的な上奏を行った。 2. 善悪の取扱...