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第三章 悲しみに占いは関係ない
■現代語訳 貞観七年(633年)、襄州の都督(地方の軍事長官)**張公謹(ちょうこうきん)**が亡くなったという知らせが届いた。 この訃報を聞いた唐の太宗(李世民)は深く嘆き悲しみ、宮殿から別の場所に移動して、正式に喪を発表した(※礼儀に則って哀悼... -
第二章 飢饉で売られた子を買い戻す
■現代語訳 貞観二年(628年)、関中地方(長安周辺)は日照り続きで雨が降らず、大きな飢饉が発生した。これを受けて太宗は側近にこう語った。 「洪水や干ばつといった天候の異変は、すべて君主である私の徳が至らないために起こることである。もし私に徳... -
第一章 宮中の女性たちを解放せよ
■現代語訳 貞観の初め頃のこと、太宗は側近たちにこう語った。 「宮中の女性たちは深い宮殿に閉じ込められており、その心情を思うと本当に哀れである。隋の末期には、宮女を集めることに歯止めがなく、皇帝が足を運ばない離宮や別館にまで、多数の女性を集... -
第三章 謙虚な皇族、河間王孝恭と江夏王道宗
■現代語訳 河間王・李孝恭は、唐の建国初期である武徳年間に趙郡王に封じられ、その後、東南地域を統治する臨時政府機関(行台)の尚書左僕射という高官に任命された。 このとき孝恭は、隋の滅亡後に南方で勢力を握っていた群雄・蕭銑や輔公祐を平定し、長... -
第二章 天子は能を隠して衆に臨め
■現代語訳 貞観三年(629年)、太宗は給事中(上奏・伝達役)の孔穎達に質問した。 「『論語』にこうある――『能力があるのに無能の者に尋ね、知識があるのに無知の者に教えを請い、才知があるのに無いかのように振る舞い、実力があってもそれを見せず空虚... -
第一章 慎み深い心を最後まで持ち続ける人は少ない
■現代語訳 貞観二年(628年)、太宗が側近にこう語った。 「世の人は、『天子となったら威厳を誇って恐れるものなどない』というが、私はそれに反対で、自らを謙遜に保ち、常に畏れ慎むべきだと考えている。昔、舜が禹にこう戒めた。『お前が自分の能力を... -
第九章「魏徴の質素な生活ぶりに敬意を表す」解説
◆ 現代語訳 魏徴(ぎ・ちょう)の家には、客を迎えるための正式な広間(正堂)がなかった。 あるとき魏徴が病に倒れた。 そのころ太宗は、小さな宮殿を新しく造ろうとしていたが、魏徴の病を知ってその建築を中止し、予定していた建築資材を使って魏徴の家... -
第八章「温彦博の葬儀」解説
◆ 現代語訳 **温彦博(おん げんはく)**は、**尚書右僕射(しょうしょ うぼくや)**という高い官職にあった。 しかしその家は貧しく、客を迎えるための正式な広間(正寢)すらなかった。 やがて温彦博が亡くなった時には、遺体を安置する場所がなく、日常... -
第七章「戴冑のボロ家」解説
◆ 現代語訳 **戸部尚書(こぶしょうしょ)である戴冑(たいちゅう)**が亡くなった。 彼の住居は、古く粗末な家屋であり、葬儀を行うための適当な場所も確保できないほど貧しく、質素なものであった。 それを知った太宗は深く心を動かされ、役所に命じて、... -
第六章「岑文本の謙虚ぶり」解説
◆ 現代語訳 岑文本(しんぶんほん)は、唐の中枢機関である中書省の長官(中書令)となったが、その住まいは湿気の多い低地にあり、住環境は貧しく、飾りといえばカーテンさえもなかった。 そんな彼に、ある者が**「商売や副業でも始めて金儲けをすればど...