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近き者の影響を侮るなかれ
人は誰の近くにいるかで変わる 若き日の皇太子がどのような人物と交わるか――それが後の人格形成と国家の命運を左右する。唐の太宗は、皇太子時代に柴紹や竇誕と交遊したが、彼らから悪い影響を受けなかったのはなぜかと問い、自らを省みた。それに対して名... -
第二章 隋の佞臣は唐になっても変わらない
一、現代語訳 貞観7年(633年)、太宗が**蒲州(現在の山西省南部)に巡幸(視察)**した時のこと。 その地の刺史(長官)趙元楷は、地元の高齢者たちに黄色い薄絹の単衣を着せて沿道に並ばせ、自らも同じ服で太宗を迎えた。また、役所の建物を豪華に飾り... -
第一章 讒言をする者は国の害虫
一、現代語訳 貞観の初年、太宗は側近たちにこう語った。 「歴代の讒言(ざんげん:他人を陥れる虚言)やご機嫌取りの者たちを見れば、皆、国家にとっての害虫だ。彼らは口が巧みで表面上は人当たりがよく、裏では徒党を組む。暗愚な君主や凡庸な支配者は... -
第三章 雄弁は決して良いことではない
一、現代語訳 **貞観十六年(642年)**のこと。太宗は日頃、大臣たちと過去の政治について議論する際、話の細部にこだわり、問い詰めたり反論を重ねたりしていた。 この様子に対し、**散騎常侍・劉洎(りゅうき)**が上奏文を提出して、次のように諫めた。... -
第二章 天子の過ちは日食・月食のように皆が見る
【現代語訳】 貞観八年(634年)、太宗は側近にこう語った。 「言葉というものは、君子の要(かなめ)であり、安易に口にすべきではない。たとえ一般の庶民であっても、一言の過ちがあれば、他人はそれを覚えていて、恥や災いを招くことになる。ましてや天... -
第一章 道理に外れた言葉は千年残る
【現代語訳】 貞観二年(628年)、太宗は側近たちにこう語った。 「私は毎日、朝廷に出て発言しようとするとき、その言葉が民衆のためになるかどうかをまず考える。だから、私は多くを語らないのだ。」 すると、給事中(天子の詔勅の伝達や政務の取り次ぎ... -
第四章 役に立たない物は作るな
【現代語訳】 貞観七年(633年)のこと、工部尚書(尚書省の建設・製造関連を主管する官庁の長官)であった**段綸(だんりん)**が、**楊思斉(ようしせい)**という巧みな技術を持つ職人を太宗に推薦した。 楊思斉が召され、太宗が何か作らせようとしたと... -
第三章 迷信は無駄なこと
【現代語訳】 貞観四年(630年)、太宗は語った。 「隋の煬帝は、猜疑心が強く、迷信を信じやすい性格だった。西方の人々(異民族)を忌み嫌い、胡人の椅子である“胡牀”を“交牀”と呼び替え、胡瓜(西方から伝来したキュウリ)を“黄瓜”と呼び替えた。また、... -
第一章 仏教・道教より政治の教えが大事
【現代語訳】 貞観二年(628年)、太宗は側近に語った。 「古人は『君主は器、民は水である。器が四角であれば水も四角、器が丸ければ水も丸くなる』と言っている。つまり、民衆の形は君主の形に従う。だから、堯や舜は仁徳によって天下を治め、民も仁を好... -
第四章 慈愛の行為で兵士を奮い立たせる
■現代語訳 貞観十九年(645年)、太宗は高句麗(朝鮮半島北部)への遠征を行い、唐軍は定州(現在の河北省定県)に宿営した。 兵士たちが次々と到着する中、太宗は自ら定州城の北門の望楼に立ち、兵士たちを出迎えて労(ねぎら)った。 その時、一人の兵士...