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善を責むるは朋友の道なり
親を正すことの重さと、その痛みに耐えた匡章の徳 孟子は、弟子・公都子の問いに続いて、匡章(きょうしょう)と父のあいだに起きた葛藤の真相を語る。 世間では、匡章を「不孝者」と見なす者が多かったが、孟子は彼を次のように擁護し、その行動の背後に... -
自分の正しい評価基準を持つ
風評に流されず、真に「不孝」とは何かを見極めよ 孟子の弟子・公都子(こうとし)が、ある日こう問いかける: 「匡章(きょうしょう)は、国中で不孝者と悪評されています。しかし先生は、彼と親しく交わり、さらには礼をもって接しておられます。なぜそ... -
立場が変わって違うことをやっても道は同じである
道を貫く者は、どの立場にいても「同じ心」で生きている 孟子は、**聖王のもとで公務を果たした禹(う)・稷(しょく)と、乱世に個人として徳を磨いた顔回(がんかい)**の行動を比較しながら、彼ら三人はすべて「同じ道(=仁義と誠実)」を生きた者であ... -
君子には終身の憂いはあっても一朝の患いはない
真の憂いは、自分がまだ聖人の道に至っていないということ 孟子は言う。君子(くんし=人格者)は、**人生を通じて「何かを成せていないこと」への自省・問題意識(憂い)**を持っているが、一方で、突発的な災難や不運(患い)には動じない。 それはなぜ... -
人を愛する者は常に人に愛される
仁と礼を守る者は、自然と人から敬愛される 孟子は、君子(人格者)と凡人の違いは、何よりも「心を失わず、常に本心=道徳心を守り続けること」にあると説く。 君子は常に、 仁(じん)=人を愛する心 礼(れい)=人を敬う心によって、自らの心を保つ。 ... -
礼はおべっかに優先する(孟子の意地)
礼を守ることは、人を恐れず、媚びないことの証である ある日、斉の大夫・公行子(こうこうし)の長男が亡くなり、喪儀が執り行われた。弔問に訪れた王驩(おうかん、右師の役職)は、有力者としてその場に現れた。 その際、会場では多くの人が、王驩が門... -
過去の経験、事実を正しく素直に見る
人間の本質は、過去の事実と自然の理に学ぶことから見えてくる 孟子は、人の「性(せい)=本性」について論じるときには、推論や空想によらず、過去の経験的事実=「故(こ)」に基づかなければならないと説いた。 この「故」とは、人間社会における実際... -
生まれつきの美人才人より、生まれてからの磨きが大切である
本質は“どう生まれたか”より“どう整えるか”にある 孟子は、中国古代の絶世の美女として知られる西施(せいし)を例に挙げて、人の評価や尊厳が見た目や才能の天賦だけでは決まらないことを説く。 たとえ西施のように美しくとも、不潔なもの(=身だしなみ... -
歴史上のことを挙げて会話を楽しむ
過ちの責任は弟子だけでなく、師にもある――学びにおける相互責任の倫理 古代中国の故事において、逢蒙(ほうもう)という弓の達人が、弓術の名手・羿(げい)に師事し、その技を極めた。やがて逢蒙は、「自分より優れた弓の使い手は師の羿だけだ」と考え、... -
大義の勇と匹夫の勇
徳とは、選択の自由があるときにこそ試される 孟子は、人の徳(とく)とは、極端な場面よりも、「してもよいし、しなくてもよい」中間の状況での選択によって最も明らかになると説いた。 取っても、取らなくてもよいときは、取らない方がよい。 なぜなら...