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借りものは、いずれ返すべきものである

孟子は、古の聖王たちの仁義の在り方を三つに分けて示した。堯や舜は、天性そのままに仁義を体現し、生まれながらにして徳を備えた人物である。殷の湯王や周の武王は、自己を修養し、努力を重ねて仁義を身につけた王である。一方、五覇――斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王――は、仁の名を“借りて”、まるで仁ある王であるかのように装って政治を行った者たちである。仁が心に根ざしていないにもかかわらず、それを利用することで覇者としての地位を築こうとした。だが、借りものは本来返すべきものであり、長い間返さずに使い続けていれば、それが借りものであることすら誰にもわからなくなってしまう。

「孟子曰(もうし)く、堯・舜は之を性にするなり。湯・武は之を身にするなり。五覇は之を仮るなり。久しく仮りて帰さずんば、悪(いずく)んぞ其の有に非ざるを知らんや」

「堯や舜は、生まれつき仁義を備えた聖王であり、湯王や武王は努力して仁義を身につけた王である。しかし、五覇は仁の名を借りて装っていただけにすぎない。借りたまま返さなければ、それが本物ではなかったことに誰も気づかなくなる」

孟子は、外見だけでなく内面の真実にこそ価値があることを説いている。仁の名を借りて装うことはできても、真にそれを自分のものとしなければ、それは借りものであり、いつか本質が問われる日が来る。

※注:

「性にする」…天性として備わっていること。
「身にする」…自分の努力で身につけたこと。
「仮る」…借りて利用すること。表面だけ取り繕って本心とは異なるもの。

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