――富貴に生まれた者こそ、労苦を知るべし
太宗は、名臣・房玄齢に対してこう語った。
「歴代の創業君主は、皆民間に育ち、民の苦楽を体得していた。ゆえに、国を乱すような愚を犯すことは稀だった。だが、彼らの子孫、継承の君主たちは、生まれながらに富貴で苦労を知らず、一族もろとも滅びることすらある」と。
太宗は、自らの若き日の艱難を振り返り、「民の衣食ひとつにも多くの人の汗と労苦がある」と述べる。
一食ごとに農民の苦労を思い、一着ごとに機を織る者の手間を想う――その感覚こそが、君主に必要な「民を思う心」である。
しかし、宮中で育った弟王たちに、その感覚はない。
だからこそ、彼らには優れた補佐役をつけ、善人と交わらせて、徳を学ばせねばならないと結論づけている。
引用とふりがな(代表)
「一食(いっしょく)ごとに稼穡(かしょく)の艱難(かんなん)を念(おも)い、一衣(いちい)ごとに紡績(ぼうせき)の辛苦(しんく)を思う」
――日常にこそ、民の苦労を忘れぬ心を養う
「創業の君(そうぎょうのきみ)は民に育ち、継ぐ者(つぐもの)は富貴に育つ」
――出自の違いが、治政の質を左右する
注釈(簡略)
- 創業君主(そうぎょうくんしゅ):戦乱を治め、王朝を打ち立てた初代の君主たち。例:劉邦・光武帝・太宗自身。
- 守文君主(しゅぶんくんしゅ):創業者の後を継いで体制を維持することを任とする皇帝。しばしば驕奢の弊に陥る。
- 稼穡(かしょく):農業、田畑の耕作と収穫。
- 紡績(ぼうせき):糸を紡ぎ、織物を作る工程。衣を得るまでの庶民の労苦の象徴。
ありがとうございます。以下に、『貞観政要』巻一「貞観十年 太宗が房玄齢に語った、創業の苦労と後継の危機意識についての章句」を、いつも通りの構成で整理いたします。
『貞観政要』巻一「貞観十年 太宗、創業者と後継者の違いを語る」より
原文(整形)
貞観十年、太宗、玄齡に謂(い)いて曰く:
「歴代の乱を鎮めて創業した主を広く見れば、皆、民間に生まれ育ち、真偽を見極める知恵があり、滅びに至ることは稀であった。
それに比して、世襲により家業を守る君主は、生まれながらに富貴で、民の苦しみを知らず、多くが国を失って滅んでしまう。
私自身は幼いころから多くの困難を経て天下を経営し、世の道理を熟知するに至った。ゆえに物事の理を理解しているが、私の弟たちは皆、深宮に生まれ育ち、世の中の道理を知らない。どうしてこのようなことが理解できようか。
私は一度の食事のたびに、農民の労苦を思い、一枚の衣服を着るたびに、紡績の苦労を思う。しかし、弟たちにそのような学びはあるだろうか。
ゆえに、良き補佐役をつけて支えとし、徳ある人材を得ることで、過ちを免れることができるのではないかと考えている」。
書き下し文
貞観十年、太宗、玄齡に謂(い)いて曰く:
「歴(つぶさ)に代々の乱を撥(はら)い、創業を成したる主を観るに、民間に生長し、皆、真偽を識(し)りて、罕(まれ)に敗亡に至る。
これに反して、世を継ぎ文を守る君は、生まれながらに富貴にして、疾苦を知らず、動(やや)もすれば夷滅に至る。
朕(ちん)、少小の頃より多難を経営し、天下の事を備(つぶさ)に知りて、故(ことさ)らに理を識る。
然るに諸王の弟たちは、皆、深宮に生まれ、識(し)らず、安(いずく)んぞ此れを念わんや。
朕は、一たびの食に毎に稼穡(かしょく)の艱難を念(おも)い、一たびの衣に毎に紡績の辛苦を思う。諸弟、何ぞ能くこれを学ばんや。
良佐をもって藩弼(はんぴつ)と為し、庶(こいねが)わくは善人を得て、愆(あやまち)を免(まぬが)るることを」。
現代語訳(逐語/一文ずつ)
- 太宗は房玄齢に語った:「これまでの歴代の乱世を鎮めて王朝を起こした君主たちは、民の中で育ち、物事の真偽を見分ける力があり、滅びることはまれであった」。
- 「それに比べ、世襲によって家を継ぐ君主は、生まれながらに富貴で、民の苦しみを知らず、多くが国家を滅ぼしてしまう」。
- 「私自身は幼い頃から多くの困難を乗り越え、天下の情勢を深く理解している。だから物事の道理を知っている」。
- 「しかし私の弟たちは、深宮の中で育ち、世の中のことを知らない。どうして世の中の困苦や道理を理解できようか」。
- 「私は一度の食事のたびに農作業の大変さを思い、一枚の服を着るたびに、糸を紡ぐ苦労を思う。だが、弟たちがそのような思いを持つことができるだろうか」。
- 「ゆえに、良き補佐役を得て支えとし、善人を得ることで、過ちを免れることができるのではないか」。
用語解説
- 撥乱(はつらん):乱世を治めること。
- 創業之主:王朝を新たに築いた創業者。
- 守文之君:先代の基盤を引き継いで維持する君主。対義語として「創業の君」がある。
- 稼穡(かしょく):田畑の作業、農業全般。
- 紡績(ぼうせき):糸を紡ぎ、布を織る作業。庶民労働の象徴。
- 藩弼(はんぴつ):補佐・支援する側近。
- 愆(あやまち):誤り、過ち。
全体の現代語訳(まとめ)
太宗は、王朝を興した者たちは庶民の中で育ち、真実と虚偽を見抜く目を養っていたために、国を滅ぼすような失敗をしなかったと述べた。一方、世襲で王位についた者たちは、裕福な環境に育ち、民の苦しみを知らないため、国を滅ぼす危険が高いと警告した。自らも多くの困難を経験したことで天下の道理を知るに至ったが、弟たちは深宮で育ち、そのような経験がない。だからこそ、彼らには徳ある補佐役が必要であり、善人を得て過ちを避けられるようにすべきだと述べた。
解釈と現代的意義
この章は、「創業者の強さ」と「二代目・三代目の脆弱さ」の対比を通じて、リーダーの資質がどのように培われるかを説いています。
- 経験のないリーダーは、思慮の浅さや自己中心性に陥りやすい。
- 真のリーダーは、自分の食や衣からでも、誰かの労苦に思いを致す「想像力」を持つ。
- 「無知の自覚」と「補佐役の配置」は、後継リーダーに不可欠な要素。
ビジネスにおける解釈と適用
- 「創業者の苦労は、経験によって人格を鍛える」
リーダーには、自ら手を動かし、現場を知る体験が必要。それが判断の土台になる。 - 「後継者教育の肝は“経験と想像力”」
後継者には、現場の泥臭さや、労苦への共感を学ばせる体験設計が必要。 - 「自分の無知を認め、補佐を立てる力」
完璧なリーダーを目指すのではなく、優れた補佐を得ることこそ、組織を強くする道。 - 「些細なことから苦労を想像する習慣」
日常の食事・衣服に込められた“他人の労力”に思いを巡らす習慣は、共感と謙虚さを養うリーダーシップの基本。
ビジネス用心得タイトル
「深宮の後継者に学びなし──“知らぬ”を知り、補佐を得よ」
この章句は、創業者の志と、後継者育成の課題を同時に扱う優れたテキストです。後継者教育・承継計画・リーダー研修の設計にも活用可能です。
コメント