騒がしさを嫌い、静けさを好む人が、ときに人を避けて孤独を選ぶことがある。
しかしそれは、静寂への執着ゆえの選択であり、
「人を避ける」という行為の裏には「我(わたし)」という心のとらわれが存在している。
つまり、静けさを求めるその心自体が、すでに「心を動かす根」なのだ。
この状態では決して、「人と我を分け隔てなく見て、動も静も忘れる」という境地には到達できない。
修養の究極とは、「人」も「自分」も、「動」も「静」も分けず、こだわらず、
一切を自然に受け容れる心の平等さ、まっさらな無心にある。
原文とふりがな付き引用
寂(じゃく)を喜(よろこ)び、喧(けん)を厭(いと)う者(もの)は、往往(おうおう)にして人(ひと)を避(さ)けて以(も)って静(せい)を求(もと)む。
意(い)、人(ひと)無(な)きに在(あ)れば、便(すなわ)ち我相(がそう)を成(な)し、心(こころ)、静(しず)かなるに着(ちゃく)すれば、便ち是(こ)れ動根(どうこん)なるを知らず。
如何(いかん)ぞ、人我一視(じんがいっし)、動静両忘(どうせいりょうぼう)の境界(きょうがい)に到(いた)り得(え)ん。
注釈
- 寂を喜び喧を厭う:静けさを好み、騒がしさを嫌うこと。
- 我相(がそう):自我のとらわれ。「わたし」という意識が強くなること。
- 動根(どうこん):心が動くきっかけ。静けさへの執着すらも、心の波立ちの原因になる。
- 人我一視(じんがいっし):人も自分も分け隔てなく平等に見ること。
- 動静両忘(どうせいりょうぼう):動いている・静かであるといった区別や執着を超えて、すべてを忘れた無心の境地。
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