山林に住む隠者たちは、たしかに生活は質素で貧しいかもしれない。
けれど、その暮らしには、俗世を超えた豊かな趣と精神的自由が満ちている。
田舎の農民たちは、粗野で洗練されてはいないが、
その素朴さの中には、飾らぬ真心と天真爛漫な人間らしさがある。
それに対して、もしも金持ちになりたい一心で、
街中にいるような悪徳商人(駔儈)となり、
欲と打算にまみれた生き方に堕ちてしまうくらいなら――
たとえ飢えて溝や谷に倒れて死ぬようなことがあっても、
気概と節操、清らかな風格をもって生き抜いた方が、
はるかに美しい生き方ではないか。
原文とふりがな付き引用
山林(さんりん)の士(し)は、清苦(せいく)にして逸趣(いっしゅ)自(おの)ずから饒(ゆた)かく、
農野(のうや)の夫(ふう)は、鄙略(ひりゃく)にして天真(てんしん)渾(す)べて具(そな)わる。
若(も)し一(ひと)たび身(み)を市井(しせい)の駔儈(そかい)に失(うしな)わば、
溝壑(こうがく)に転死(てんし)して神骨(しんこつ)猶(なお)清(きよ)きに若(し)かず。
注釈
- 清苦(せいく):清らかで貧しいが、節度を持ち誇り高い生活。
- 逸趣(いっしゅ):俗を離れた、風流で趣のある暮らし。
- 鄙略(ひりゃく):粗雑で田舎くさい。都会的な洗練とは無縁な素朴さ。
- 天真渾て具わる(てんしんすべてそなわる):自然な人間らしさが、そのまま保たれている状態。
- 駔儈(そかい):本来は仲買人の意だが、ここでは欲深く不正な商人を指す。
- 溝壑(こうがく)に転死(てんし):溝や谷で飢え死ぬこと。『孟子』や幕末の志士たちの思想にも通じる表現。
- 神骨(しんこつ)猶清し:魂と気概がなお清らかであること。風格の象徴。
関連思想
- 『孟子』「志士は溝壑に在るを忘れず」:真の志を持つ者は、どんな困窮にも動じず、志を失わない。
- 幕末の志士たちや、吉田松陰なども「溝壑に死すとも節を守る」精神を重んじた。
- 「富より節」「名より実」を重視する、東洋思想における根本的価値観が表現されている。
パーマリンク案(英語スラッグ)
better-honorable-death-than-dishonest-life
→「不正に生きるより、正しく死ぬほうがよい」という教訓を端的に表現。
その他候補:
- purity-over-profit(利益よりも気高く)
- die-clean-live-true(清く死ぬ、真っ当に生きる)
- refuse-dirty-riches(汚れた富は拒む)
この章は、現代においてもなお響く「誠実さ」と「品格」を貫く強いメッセージです。
1. 原文
山林之士、清苦而逸趣自饒;農野之夫、鄙略而天真渾具。若一失身市井駔儈、不若轉死溝壑、神骨猶清。
2. 書き下し文
山林(さんりん)の士(し)は、清苦(せいく)にして逸趣(いつしゅ)自(おのずか)ら饒(ゆた)かにし、
農野(のうや)の夫(ふう)は、鄙略(ひりゃく)にして天真(てんしん)渾(す)べて具(そな)わる。
若(も)し一(ひと)たび身(み)を市井(しせい)の駔儈(そくかい)に失(うしな)わば、
溝壑(こうがく)に転(まろ)び死(し)するとも、神骨(しんこつ)猶(な)お清(きよ)きに若(し)かず。
3. 現代語訳(逐語/一文ずつ訳)
- 「山に暮らす人は、生活は質素で苦しくても、自然とともにある自由で趣のある生き方をしている」
- 「田畑で働く農夫は、教養は乏しく粗野に見えるかもしれないが、天性の純粋さがそのまま残っている」
- 「もし一度でも自らを、市場に生きるような金儲け第一の俗物に売り渡してしまえば──」
- 「もはや、溝や谷で飢えて死んだとしても、その魂や骨が清らかである方が、まだましである」
4. 用語解説
- 山林の士:隠棲して自然と共に暮らす文人や高士(教養ある隠者)。
- 清苦(せいく):貧しくとも清らかで志高い生活。
- 逸趣(いつしゅ):趣深く風雅な楽しみ。精神的充足。
- 農野の夫:田畑に働く農夫。
- 鄙略(ひりゃく):素朴で教養が乏しいこと。
- 天真(てんしん):飾り気のない、純粋な自然な心。
- 市井(しせい):市場、つまり都市や世俗の人混み。
- 駔儈(そくかい):商人の中でも、売買に汲々とするあくどい仲買人。金儲け主義の象徴。
- 溝壑(こうがく):溝や谷底。野垂れ死にするような場所。
- 神骨(しんこつ):精神と骨格。人格の核心。
5. 全体の現代語訳(まとめ)
山に暮らす隠者は、物質的には貧しくとも、風雅で自由な人生を楽しんでいる。
農村の人々も、無骨で素朴ながら、心には自然そのままの純粋さが備わっている。
だが一度でも、金儲けのために自分を市場の仲買人のような存在に堕とし、俗世の欲に染めてしまったならば、
むしろ飢え死にしても、精神と骨格が清らかなままの方が、はるかに価値がある。
6. 解釈と現代的意義
この章句が示すのは、**「人格の核が濁ってまで得る名利には意味がない」**という、倫理的で精神主義的な態度です。
- 金儲けや社会的地位のために「魂を売る」ことは、どれほど物質的成功を得ても、人間としての敗北である
- 「清苦にして自得あり」という境地を、現代の“自律性”や“内発的動機”と置き換えると理解が深まる
- 特に経済的成功を絶対視する現代への強烈なアンチテーゼ
7. ビジネスにおける解釈と適用
✅ 「“魂を売って得た成果”に、持続可能な満足はない」
- 顧客を騙すような手法、倫理に反するKPI達成──一時の成功の代償は大きい
- ブランドもキャリアも「神骨=人格」が問われる時代へ
✅ 「誠実な事業は、遠回りでも信頼という最大資産を生む」
- 見た目の成功より「天真のままの価値提供」を重視する文化が、長期的競争力を育む
✅ 「“清苦”の中にある誇りを再認識する」
- 地道な仕事、泥臭い努力も、自分の理念と合っていれば、それは“逸趣”であり誇りである
8. ビジネス用の心得タイトル
「魂を売るな──“清らかな死”は、濁った成功に勝る」
この章句は、組織倫理の研修、起業家の理念再確認、経営者向けの内省ワークショップに活用できます。
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