会社内では、過剰な無駄な活動が横行している。ここで挙げた例は、そのほんの一部に過ぎない。しかし、実際に取り組んでいる本人たちはいたって真剣であり、「記録を取る」という行為をしない者は近代化への意欲が低いと見なされてしまう。
言い換えれば、洗練されたマネジメント手法を導入している企業ほど、その裏側で無駄を生み出すリスクを抱えているということだ。その結果、間接部門の人員が増え、人件費や経費が膨らみ、マネジメントの本来の目的とは逆に、会社の業績を大きく阻害してしまうことになる。
こうしたリスクを回避するために、職務分析や事務分析といった手法が、無駄を排除する手段として活用される。
これらについて一通り学んだものの、途中で馬鹿らしくなってやめた。仲間が取り組んだ職務分析の実例も数十社にわたって知っているが、残念ながら、それによって大きな成果はおろか、わずかな成果すら得られた例を目にしたことがない。
専門家がどれほど自らを称賛しようとも、会社側からのクレームという現実は否定できない。つまり、それらの技法自体に成果を生む力がないとしか言いようがない。マネジメントの手法は、理論や分析のために存在するのではなく、企業の成果を向上させるためにこそあるべきものだ。
そんな複雑な手法を使った分析なんかしなくても、どの仕事が必要で、どの活動が無駄なのかは判断できる。間接部門の業務は帳票を基に行われることが多いから、それらを確認すれば大体の見当はつくものだ。
その帳票が本当に必要かどうかの判断を、新入社員ならともかく、10年や15年もその会社で働いている幹部が「見ただけではわからない」と言うなら、相当な阿呆だ。それだけで幹部失格だと言わざるを得ない。しかし、現実にはそんな阿呆はほとんど存在しないことを、職業柄、多くの人々と接してきた経験からよく知っている。
では、なぜ会社内で無駄な活動が数多く行われているのかといえば、単純にその無駄について検討する機会が設けられていないからに他ならない。
会社の業務は、内外の情勢変化に伴って新たな活動が必要になる。しかし、職務分析には、こうした新しい状況に対応するための考え方が欠けているという致命的な欠陥がある。この現実を無視した観念的な手法が、変化に柔軟に対応しなければならない企業に根付くはずがない。
会社が成長するにつれて、業務の分担はますます細分化され、それに伴って帳票の種類や数も増えていく。一方で、古い業務の中には不要になるものも出てくるが、惰性によってそれらの業務や帳票が廃止されずに残り続ける場合が多い。さらに、独自に私製の帳簿を作成する者も現れる。こうした要因が重なり、帳票は次第に増え続ける。
そうした帳票は、忙しさにかまけて放置されることが多い。また、無関心や怠慢の結果として見過ごされる場合も少なくない。不便や不要だと気づいていても、重大な支障がない限り、手を加えるのが面倒だと考えられ、そのまま放置される。さらに、下手に帳票整理に手を付けると、「藪蛇」になって、せっかく苦労して増やした部下を減員で失う可能性があるとの懸念から、あえて触れずに済ませる場合も多い。こうした状況は珍しいものではない。
だからこそ、企業では定期的または計画的に業務や帳票の見直しを行い、不要な帳票を容赦なく廃棄すると同時に、人員の再配置を進める必要がある。「捨て去ること」の重要性がここにもある。ただし、この決定には苦労が伴う。内部の反対意見を説得し、理解を得るプロセスを経なければならない。この苦労を避け、現状維持に甘んじる経営者こそが、最終的に会社を衰退させる原因となるのだ。
この文章では、企業の中で発生している「ムダな活動」に焦点を当て、特に「業務の無駄」と「帳票類の無駄」について問題提起しています。具体的には、過剰な報告書や手続きが業績を圧迫し、効率的な経営が妨げられる原因となっていることが述べられています。
経営者や幹部が無駄な活動に気づかず、あるいは改善する意識がない場合、その企業は確実に生産性が低下します。特に「職務分析」や「事務分析」などの専門的な方法が必ずしも成果を上げない場合が多いことも指摘されており、逆に、実際には日々の業務の中で簡単にムダを見抜くことができるという立場が取られています。
また、帳票類について、業務の変化に応じて新しい帳票が増え、不要なものがそのまま残ることで無駄が積み重なる構造が問題視されています。無駄を排除するためには、定期的な業務と帳票類の見直しが必要であり、無駄な活動を削減し、人員の再配置を行うことが経営者の責任として強調されています。
最終的に、このような「無駄」を排除できない経営者は、企業を破綻に導く可能性が高いと警鐘を鳴らしています。
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