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求めるな、すでに自由であると知れ

人は誰しも「不自由」から逃れたいと願う。
時間に追われること、他人の目を気にすること、欲しいものが手に入らないこと――
それらは心をかき乱し、「もっと楽に生きたい」と思わせる。

だから私たちは、
お金を貯め、評価を得ようとし、便利さや快楽を追い求める。
そしてこう考えるようになる。
「もっとあれば、自由になれるはずだ」と。

しかし、『バガヴァッド・ギーター』はそれに静かに問いかける。
「その自由、本当に手に入っているか?」

お金を得ても、もっと欲しくなる。
評価を得ても、失うことが怖くなる。
行動すればするほど、結果に縛られていく。

それはまるで、渇いた喉を海水で潤そうとする漂流者のようだ。
一口飲めば、さらに渇く。
満たそうとすればするほど、渇きが深まっていく。

これが、「行為の束縛(カルマ・バンダ)」である。
『ギーター』は言う。

「行為の束縛を離れれば、ブラフマンにおける涅槃(モークシャ)に至る」(第2章72節)

では、どうすればこの束縛から抜け出せるのか?
答えは一つ。
「自分とは何か」を知ること――アートマンを知ることである。

アートマンとは、変わることのない本質的な自己である。
喜びや悲しみを味わう「心」でも、老いてゆく「肉体」でもない。
感情や記憶の奥に静かに存在し続ける、「純粋な観照者(意識)」である。

感情が揺れても、アートマンは揺れない。
苦しみに出会っても、アートマンは傷つかない。
どれだけ世界が変わっても、アートマンは変わらない。

それを「知識」として学ぶだけでなく、
「私はアートマンである」と気づいたとき、
人は、欠乏感から、恐れから、結果への執着から自由になる。

これが、「モークシャ(真の自由)」である。

自由とは、「何かを得ることでなれるもの」ではない。
「すでに自由である自分」に目覚めることでしか到達できない。

悲しみに支配されるのは、「変わるもの」に自分を重ねるからである。
感情や身体に「私」を預けている限り、永遠に不安からは逃れられない。
だからこそ、『ギーター』は繰り返し語る。「嘆くな」と。

アートマンを知れば、嘆く理由はどこにもない」と。

この何ものにも縛られず、
何ものにも依存せず、
ただ在るだけで完全であるという状態こそが、
私たちがこの人生の中でずっと求めていた「自由」なのだ。

外の世界ではなく、内なる真我に帰ること。
そこに、終わりなき探求の終着点がある。

アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。(第 2章 72節)

(略)次に、ヨーガ(実践)における知性を聞け。その知性をそなえれば、あなたは行為の束縛を離れるだろう。(第 2第 39節)

彼(※アートマンのこと)は顕現せず(認識されず)不可思議で、不変異であると説かれる。それ故、彼をこのように知って、あなたは嘆くべきではない。(第 2章 25節)また、彼が常に生まれ、常に死ぬとあなたが考えるとしても、彼について嘆くべきではない。(第 2章 26節)生まれた者に死は必定であり、死んだ者に生は必定であるから、それ故、不可避のことがらについて、あなたは嘆くべきではない。(第 2章 27節)あらゆる者の身体にあるこの主体(※アートマンのこと)は、常に殺されることがない。それ故、あなたは万物について嘆くべきではない。(第 2章 30節)

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