伊勢湾台風と佐伯勇
伊勢湾台風の時である。近鉄名古屋線は木曽川の堤防決壊によって名古屋―桑名間の鉄路が水浸しとなり、不通となってしまった。
当時の社長佐伯勇はパリに滞在中であった。その事を、本社からの報告で知ったが、やがて水は引くだろうと思ってパリに滞在したままであった。
ところが、水は一カ月たっても引かず、本社から帰国の要請を受けた。
事の重大さを知った社長は、予定を変更して急きょ帰国した。
直ちに名古屋からジープを飛ばして木曽川の決壊の現場に駆けつけた。満満と水をたたえたその上に、木曽川の鉄橋が無事の姿を浮かべていた。
これを見た社長は、その場で決定というよりは決断ともいうべき重大事を決めたのである。それは、
「かねてよりの懸案であるタゲージク統一を、この際実現する。復旧でなくて建設だ」というワンマン決定である。
当時の近鉄の名古屋線は、大阪から伊勢の中川までは広軌、中川から名古屋までは狭軌であった。そのために、大阪― ‐名古屋間の特急は、中川で乗換えなければならず、大きなネックになっていたのである。
当然のこととして、ゲージを統一して中川― ‐名古屋間を広軌に変えるということが決まっていたが、いろいろな都合で未だ実現せずに、懸案となっていたのである。
翌日、大阪の本社で役員会を開いて、この決定を告げた。その瞬間に、役員会は「そんな殺生なこと」というような状態になってしまった。
復旧もできないのに建設だというのである。
社長は役員達を説得し、全社をあげて建設準備を開始した。準備だけでも大変なものだった。
やがて水が引き、工事可能となった。社長の号令一下、全員死にもの狂いの突貫工事が開始された。そして、たった九日間で工事を完成させてしまった。離れ業である。
こうして名古屋線は広軌一本化が完成し、近鉄の大きな収益源となったのである。
この建設工事に大きな力となったのは、台風で被災した社員である。
はじめ、パリで台風被害の報告とともに、七百人の被災社員の報告を受けた時に、社長は「前例にとらわれず、会社として最大限の援助をせよ」という指令を
もしも「よきに計らえ」という馬鹿殿式の指示をしたならば、役員は必ず「慶弔規定」と「前例」にもとづいた、形式的な見舞程度のものになってしまう。
これでは被災者の援助にはならない。そこで、この指令になったのである。
このために、被災社員は大感激して、「社長の温情に報いる道は、この建設工事を、どんな事があっても成功させることだ」となった。
被災しなかった社員も、社長の温情を目のあたりに見て、「社長は、われわれが本当に困った時には救いの手を差し出してくれる」という信頼感を持ったのである。
「ストライキのない近鉄」は、このような社長と社員の相互信頼の上に成り立っているのである。
こうして、順調な業績をあげていった近鉄に、またまたピンチが訪れた。それは、東海道新幹線開通である。名古屋― ‐大阪間が一時間余りとなってしまう。
近鉄のドル箱路線である名古屋― 大阪間の特急では二時間余りかかる。これではお客様が急減してしまう。役員はマッ青になり、社員として不安な気持になった。
この大ピンチにも、佐伯社長は動じなかった。秘策があったからである。社長は、
「何も心配する事はない。それどころか、名古屋、京都、大阪に、新幹線は人を集めてくれる。この人達をお客様として近鉄を利用してもらう。
そのためには参宮線を整備し、サービスを向上させる。関西地区の観光客は必ず京都と奈良を訪れる。いままでは京都― ‐大阪― ‐奈良と、大阪経由である。そこで京都― ‐奈良を直結する路線の強化を行う」というのである。現在の近鉄京都線である。
京都と奈良の入口である西大寺までわずか二十分、アッという間についてしまう。
ピンチをチャンスに変えてしまったのである。大事業家の面目躍如たるものがある。
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