社長の責任と社員の責任はどう違うか
「社長の責任において決定する」という意味は「結果に対する責任は社長が負う」という意味である。
それだけではない。「社長が知らないうちに起ったこと」でもすべて社長の責任なのだ。
会社の中では、何がどうなっていようと、結果に対する責任はすべて社長がとらなければならないのだ。
これに対して、社員の責任は「実施責任」であって「結果に対する責任」ではないのだ。
方針や指令を忠実に行う実施責任だから、もしもこれらを実施しなければ「不実施責任」を負わなければならない。方針や指令を忠実に実行していれば、結果がどうであれ、その責任は追及されない。これは、方針や指令が誤っているから結果が悪いのである。
以上が、責任というものに対する正しい考えである。
この点が明らかになっていないと、会社の中に無用な行動が起ったり、責任回避のための奇妙な習慣や複雑な手続きが生れてくるのである。
「独裁すれど独断せず」はワンマン社長の基本的態度であり、未来指向、外部指向、構造指向こそ社長の関心と思考の正しい方向である。
以上のことをふまえて、では「正しいワンマン経営」とは何ぞやということになる。その基本条件を考えてみよう。
正しいワノマノ経営とは
1、社長は、自らの経営理念にもとづく我社の「未来像」をもち
2、その未来像を実現するための目標と方針を、自らの意志と責任において決定し、これを「経営計画書」に明文化する
3、経営計画を、社員によくよく説明して協力を求める
4、経営計画の最も重要な施策は自ら取組み、他は任せるのである。
以下、これについて若干の補足をさせていただく。
経営理念
経営理念というのは、社長の人生観・宗教観・使命感にもとづく経営の基本的態度のことである。
これは、作ろうと思ってもできるものではないし、考えて作りあげるものでもない。
長年の事業経営の中で次第に育ってくるものであったり、人生経験の積み重ねから生れたりするものである。
アイデア的は、和装品の販売と着付教室を事業とする中企業である。社長の山中典士氏は、自らの経営理合について次のように私に語った。
「お茶には「茶道」があり、お華には「華道」がある。とすれば、和装には「装道」というものがあっていい筈だ。私は和装を単なる「おしゃれ」ではなく、「道」にまで高めたい」と。
装道は愛なり 愛はすべてを活かし 心言装行を 美の極に至らしむ(装道の栞より)
というのが装道の精神である。
同社は、この「装道」の理念にもとづいて、すべての考え、すべての行動が展開されているのである。それは、社員の服装、態度を見ただけで、ハッキリと感じられるのである。
クレープ(縮み織物)とニット生地のメーカー、 ハイネス的に初めてお伺いした時は、センイ業界がオイル・ショックによる不況のさ中であった。それにもかかわらず、同社の売上げは着実に伸びていた。まさに奇跡ともいえるものであった。
その秘密は、社長の倉橋之政氏の経営理念にある、というのが私の見方である。
その経営理念というのは、「泥の中にも蓮の花」というものである。
同社の商品である「ニット生地」を見せられた時に、「これが蓮の花だ」と思わず唸った。日本で、こんなに見事なものができるのか、と。
しかも価格は適正というよりは、むしろ安価と思われたのである。
経営理念こそ、事業経営の魂である。だから、社長は経営理念を持たなければならない。
とはいえ、常に明文化された経営理念がなければならない、ということではない。
明文化されない経常理念もある。それを大事にしながら経営を行うのも立派な経営であると心得ていれば、それでもよいのである。
未来像を明らかにする
経営理念は一つの哲学である。この哲学をふまえ、実践しなければならない。
その実践は、我社の未来像(ビジョン)として、具体的に示されなければならない。
その未来像には、最小限度次の三つが必要であろう。
まず第一には、どのような事業を行うかということである。
事業は、必ずしも一つとは限らない。いくつかの事業の組合せもある。長期的には、むしろ組合せのほうが変化への対応力が強くなるからである。
第二には、事業構造と規模である。
事業構造を明らかにすることによって、企業の基本的な性格がきまり、規模を示すことによって、行動の基準と方向が明らかになるのである。
第二には、社員の処遇である。
給与、勤務、福利厚生などがその中心となるものといえよう。定年後の第二の人生まで及んでいる会社もある。
以上三つの未来像は、固定したものであってはならない。
客観情勢も変われば、社長のビジョンの発展もある。それらの変化と発展にともなって、絶えず前向きに書きかえられなければならない。事業は「生きもの」であリ「成長」してゆくからである。
経営計画による経営
社長の未来像を具体的な活動指針として具体化したものが「経営計画」である。
事業の経営は、いろいろな活動が総合され、有機的に結びつけられ、弾力的に運用されてはじめてうまくゆく。
これを実際に行うのは生やさしいことではない。その難しさは、個々の活動についてはいうまでもないが、いろいろな活動について何を重点とし、何を優先させるか、全体としてのバランスをどうとるか、という難しさなのである。
この難問を解決するには、事業経営全体を知らなければならない。これを知る
最も有効な手段こそ「経営計画」である。これ以上有効な手段を私は知らない。また、これ以上社員を動機づける道を、私は知らないのである。
これ程重要な役割を果す「経営計画」についての一般的な認識は恐ろしいほど低いのである。
単なる数字の羅列であったり、社長が誰かに命じて作らせたものであったりする。–
経営計画は、社長自ら筆をとり、精魂を傾け尽くしてつくりあげるものである。
社長の魂を、この経営計画に結集するものである。そして、デラックスな製本をするものである。
会社の中で最も大切なものであるが故にである。社長の行動も全社員の行動も、すべてはこの「経営計画」にもとづいて行われなければならないものである。
では、その「経営計画」とはどのようなものであり、どう活用するかということは、このク一倉定の社長学シリーズクの『経営計画・資金運用』篇で詳しく述べることとする。
経営計画ほど社員を動機づけるものはない
経営計画は、経営計画発表会において社員によくよく説明し、徹底を計らなければならない。これこそ、日本的経営の特色であり、日本以外の国においては絶対にできない大きな強味である。
世界で唯一、終身雇用の土壌をもつ我国だからこそできることなのである。ここで、ちょっと余談になるが、ハッキリさせておきたいことがある。
多くの人々は、日本は「終身雇用制」だと思いこんでいるが、日本にはどんな法律にも、どこの会社の就業規則にも、終身雇用という制度はない。
あるのは「定年制」なのである。大きな誤解である。
日本の終身雇用というのは、制度ではなくて「土壌」なのだ。土壌は制度よりはるかに強い。だからこそ、法律では会社には解雇権があるが、現実には解雇はできないのだ。
会社がギリギリの土壇場まで追いつめられた場合にのみ解雇が行われるだけである。
もう一つの大きな思い違いは、「最近は、次第に終身雇用制が崩れてきた」などというトンチンカンなことをいうヤカラがいる。
これは、社員が自分の意思で転職してゆくことをいうらしいのだが、こんなことは戦前どころか、明治、大正時代でもあったことで、最近生じたことではない。
これは、終身雇用とは別のことなのである。
終身雇用の土壌というのは、経営者の立場であって、社員の立場ではないのだ。終身雇用は経営者の立場として厳然として存在し、微動だにしていない。それが「土壌」だからである。
この点を理解していないと日本的経営の本当の姿を見失ってしまうのである。
では、その日本的経営とはどんなことなのだろうか。
終身雇用の日本の会社では、社員は、ちゃんと勤めている限り、自分の意思に反して解雇されることはない。ここに、大きな安心感があり、会社との一体感が生れる。そして、社員としても会社が発展し繁栄することを期待するのである。
ところで、人間の一生を通じての基本的欲求は何であろうか。いうまでもなく「一生を通じての生活の安定と向上」である。
この欲求は、終身雇用なるが故に、会社の将来がこれを左右する。だから、会社の将来性こそ社員の最大の関心である。これが「社長は会社の将来についてどう考えているか」という社員の関心になってゆく。
これに答えてくれるものが経営計画である。その内容の一つ一つは社長の意図であり決意であるが、これが社員にとっては自分の将来のことである。
人間が最も意欲を燃やすのは「自分のこと」である。ここに強烈な動機づけが行われる。
経営計画の発表会を境にして会社は変わってしまうのである。参列者は、全身を耳にして社長の説明をきく。社長の言にうなずくもの、顔を、輝かせるもの、中には感激のあまり目に涙するものもいる。
発表会に続いて行われるパーティに社長が社員から胴上げをされる光景を、私は頻繁に見せつけられるのである。
経常計画発表会こそ会社が生れ変わる日であり、参列者の一人一人が「よし、やるぞ」という決意を持つ日なのである。
ここに全員経営が生れるのである。そして、業績は見る見る上がってゆくのである。
これは、「正しいワンマン経営こそ、全員経営を実現する道である」ということの実証である。
正しいワンマン経営なくて全員経営なし。経営計画なくて全員経営なし。そして、正しいワンマン経営こそ日本的経営の
本当の姿なのである。世界のどこの国にもない素晴らしい経営なのである。
社長の責任と社員の責任
社長の責任は、結果に対する責任― うまり利益責任は社長ただ一人が負うも
のである。
その実証は、会社がつぶれた時に誰が責任を追及されるか、であることはすで
に述べた通りである。
その責任がワンマン決定権となってあらわれるのであることを認識しなければならない
ワンマン決定こそ正しい姿であり、これ以外にはないのである。例えば、よく
あるク合議制″というものは、責任のがれを美化したもの以外の何物でもないの
である。責任者がはっきりしないからである。
社員の責任は実施責任であって、結果に対する責任を負わせるのは誤りである
ということもすでに述べた通りである。
だから、事業部制、独立採算制、部門利益責任制など、すべて誤っている。本
来社長だけの責任である利益責任を社員に負わせるという誤りである。この誤り
が、必然的に当事者に誤った行動をとらせ、会社を危うくし、社員の人間性まで
破壊してしまうのである。
社員の責任は、あくまでも会社の方針、指令などの実施責任であって、追及さ
れるのは不実施の責任である。社員に結果― 利益責任はないことを、社長は知
らなければならない。このことは、いくら繰り返し強調しても、足りないほど大
切である。
利益責任は社長ただ一人が負い、実施責任はあくまでも社員であるという正し
い認識こそ大切なのである。
そして、 一番苦しいのは社長なのである。
いい会社とか悪い会社とかはない、あるのはいい社長と悪い社長である。
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