目次
📜引用原文(日本語訳)
第五十偈
泥沼をわたりおわって、村の刺を粉砕し、
迷妄を滅ぼすに至った人、
かれこそ〈修行僧〉と呼ばれるのである。
― 『ダンマパダ』 第二章 第五十偈
🔍逐語訳(文ごとの意訳)
- 泥沼をわたりおわって:煩悩に満ちた混濁の人生(サンサーラ)を乗り越え、清らかな境地に達した者。
- 村の刺を粉砕し:五感による刺激や欲望の誘惑を断ち切った者。
- 迷妄を滅ぼすに至った人:あらゆる無知、すなわち真理を見誤る根本原因を滅した者。
- かれこそ修行僧と呼ばれるのである:外見でも形式でもなく、智慧の完成こそが真の修行者の証である。
📚用語解説
用語 | 解説 |
---|---|
迷妄(無明, アヴィッジャー) | 真理に対する無知。「我がある」「永遠のものがある」といった幻想。仏教では最も根本的な煩悩。 |
泥沼(サンサーラ) | 苦・生老病死の輪廻。 |
村の刺 | 五感による刺激。感覚の「村」に住むと、心が刺される。 |
🪞全体の現代語訳(まとめ)
人生の泥沼を乗り越え、
欲望と感覚の誘惑を打ち砕き、
さらにはあらゆる誤解と無知=「迷妄」をも消し去った者こそが、
真の修行者である。
🧠解釈と現代的意義
この偈が説くのは、修行の最終段階が**「無知の克服」**であるということ。
仏教では「無明(アヴィッジャー)」が輪廻(サンサーラ)を生む根本原因であり、
これを破らない限り、悟りも自由もありえません。
現代における「迷妄」とは:
- 自分だけが正しいという思い込み
- 常識に縛られた視野の狭さ
- 不安や欲に基づく衝動的行動
- 成功や名声に価値を固定してしまう意識
これらは**情報過多の現代社会における「知識の錯覚」**として現れます。
この偈は、「知識」ではなく「智慧(パッニャー)」を求めよと説いているのです。
💼ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 実践への応用例 |
---|---|
自己認識の深化 | 「わかっているつもり」の慢心を手放し、本当に大事なものを見極める姿勢。 |
バイアスからの解放 | 確証バイアス、ステレオタイプ、自己正当化などに気づき、脱する訓練。 |
学習と実践の統合 | 知識の蓄積に満足せず、それを日常の実践と統合する“体得”を目指す。 |
ビジョン形成力 | 一時的な利益にとらわれず、根本的・全体的視野に立って判断する経営姿勢。 |
✅心得まとめ
「迷いは無知から始まり、
智慧は気づきから始まる。」
知っていることと、見えていることは違う。
真理を見る目を持ったとき、人はようやく、
真の自由と静けさに至る修行僧となる。
この偈は「修行僧篇」の中でも特に完成された智慧の姿を描いています。
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