MENU

煩悩の泥を越えて、真の自由に至る


目次

📜引用原文(日本語訳)

第四八偈
泥沼をわたりおわって、村の刺(=諸感官を刺激するもの)を粉砕し、
情欲を滅ぼすに至った人、
かれこそ〈修行僧〉と呼ばれるのである。
― 『ダンマパダ』 第二章 第四十八偈


🔍逐語訳(文ごとの意訳)

  • 泥沼をわたりおわって:煩悩や迷いに満ちた人生という泥沼を通過し終えて、清浄な岸に至った者。
  • 村の刺を粉砕し:「村」は感覚の刺激が多い場所、「刺」とは五感による誘惑や欲望の刺激。これらを打ち破った者。
  • 情欲を滅ぼすに至った人:性・快楽・執着などの根深い情欲を完全に超越した者。
  • かれこそ修行僧と呼ばれるのである:このように、外見や形式ではなく心の清浄と克己の実践によって、真の修行僧と呼ぶにふさわしい。

📚用語解説

用語解説
泥沼(ティナッバンタ)執着・怒り・無知などの煩悩で汚れた心の比喩。
村の刺五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)によって生じる煩悩の刺激。
情欲(カーマ)感官的快楽に対する欲求。もっとも根深く、悟りを妨げる煩悩の一つ。

🪞全体の現代語訳(まとめ)

人生という煩悩に満ちた泥沼を歩き抜き、
五感による刺激や誘惑を断ち切り、
心の奥底から情欲を克服した人こそが、
真の修行僧と呼ばれる。


🧠解釈と現代的意義

この偈が示すのは、修行の本質とは
**「煩悩からの解放」**であるという明確な姿勢です。
それは一時的な我慢ではなく、本質的な超越

現代では「村の刺」とは、たとえば以下のようなものです:

  • SNSの承認欲求
  • 消費欲や見栄
  • 快楽への依存(食、性、酒、娯楽など)

私たちは、これらの刺激に反応することで、常に心を乱されているのです。

この偈は、反応しない心、超越した心の境地が真の修行であると教えています。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点実践への応用例
情報過多の時代の克己SNSや通知に惑わされず、今なすべきことに集中する。
感情刺激への自覚怒り・羨望・焦燥などの刺激に即反応せず、一歩間を置いて判断する。
誘惑のマネジメント不要な消費、目先の利益などに飛びつかず、長期的価値を選ぶ力。
心の静けさの保持雑音の多い職場環境でも、自分の“心の芯”を守り抜く力がリーダーの資質。

✅心得まとめ

「煩悩の沼に沈むな、
五感の刺に倒れるな。
心の岸辺を目指す旅こそ、修行の本質である。」

煩悩を抱えたまま“修行者”を名乗ることはできない。
欲望を見抜き、越え、沈まぬ力を持った者だけが、真に自由である。


この偈は、現代における情報・感覚・誘惑の洪水の中でこそ、一層の重みを持ちます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次