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悟りは形に宿らず、汝の油断なき心に宿る


目次

📜引用原文(日本語訳)

第三一・三二偈(通釈)
戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、
また瞑想を体現しても、また人々から離れてひとり臥すことによっても、
修行僧は安心・油断してはならない。
煩悩の汚れがなくならないうちは。
むしろ凡夫の味わい得ないものである
さとりの楽しみに触れよ。
― 『ダンマパダ』 第二章 第三一・三二偈


🔍逐語訳(文ごとの意訳)

  • 戒律や誓いだけによっても、また博学によっても:形式的に五戒や律を守ったり、経典に詳しくても、
  • また瞑想を体現しても、また人々から離れてひとり臥すことによっても:見た目に修行しているようでも、隠遁生活を送っていても、
  • 修行僧は安心・油断してはならない:自分はもう完成したと油断してはならない。
  • 煩悩の汚れがなくならないうちは:内心の欲・怒り・無知などの煩悩が残っている限り、それは完成ではない。
  • むしろ凡夫の味わい得ないものであるさとりの楽しみに触れよ:真の喜びは「凡人には触れられぬ涅槃の境地」にある。それを求めよ。

📚用語解説

用語解説
戒律や誓い(シーラ)道徳的規律。守ることは重要だが、それ自体が目的ではない。
博学(バーフー・スッチャ)経典・教理への知識。知っているだけでは修行の完成ではない。
瞑想(ジャーナ)精神統一による静寂。深めるべきだが、それ自体に酔うことは危険。
凡夫(プッジャナ)未だに煩悩に縛られ、悟りを得ていない普通の人間。
さとりの楽しみ(ニッブーティ・スッカ)涅槃に近づいた人が体感する、形のない静謐な喜び。

🪞全体の現代語訳(まとめ)

たとえ修行の形式を整え、知識を備え、瞑想を重ねていても、
まだ内面に欲・怒り・迷いの残滓があれば、
それは完成ではない。

修行僧は「もう大丈夫」と油断することなく、
世俗では味わえぬ「さとりの静かな喜び」に
一歩でも近づこうと精進すべきである。


🧠解釈と現代的意義

この偈は、私たちが**「形や結果に安心し、自惚れてしまうことの危険性」**を強く警告しています。
「知っていること」「やっているふう」に満足してしまうと、
本質的な変容=煩悩の浄化には至らない。

つまり、「本当に変わったかどうか」は、自分の心が最も知っているのです。
この教えは、どれだけ成果を出しても、どれだけ肩書があっても、
謙虚に内面を見つめ続ける人こそが、成長し続ける人間であるという普遍の真理を語っています。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点応用例
成果主義の盲点への戒め数値や称賛で満足せず、常に「本質的な改善と人格的成長」を忘れない姿勢。
役割・知識に酔わないリーダー像役職・知識・実績に胡坐をかかず、学びと反省を続ける人は、真に敬われる。
“終わりなき改善”の価値成長とは「終わりなき自己観察と精進」。完了を宣言せず、常に洗練し続ける文化こそが強い。
形ではなく“変化の質”を見る視点研修や制度より、実際に“心が変わっているか”に注目するのが成熟した組織。

✅心得まとめ

「形式は進歩の道具であって、悟りそのものではない」
「ほんとうに変わったかどうか――それは、心だけが知っている」

戒・定・慧、どれも尊い。
だがそれらに酔い、自己満足に落ちれば、
修行の本質から遠ざかる。

変わらぬ努力と、静かな内省が、凡夫には届かぬ喜びへの道である。


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