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観る力は、条件のもとに生まれる


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📖引用原文(日本語訳)

単にすがたを見る人は、どうしてすがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?
すがたを見ない人が、つねにすがたをさらに吟味して見ることが無いのは、どうしてであろうか?
何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのだろうか?
何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?
――『ダンマパダ』 第二七章「観察」第三十九節


🧩構造的解釈

この節は「問いかけ」の形式をとりながら、以下の4つの疑問を提示しています:

  1. 単に見る人が、なぜ観ないのか?
    → 習慣的、感覚的、無反省であることが根本。
  2. 見ない人が、なぜ観ようとすらしないのか?
    → 無知・無関心・執着によって、観察する動機そのものが欠如している。
  3. 何があるとき、観察が起こるのか?
    → 気づき(サティ)、内省、智慧、疑問を持つ心が育ったとき。
  4. 何が無いとき、観察は起こらないのか?
    → 慣性、執着、思い込み、無明があるとき、人は「観る」ことから遠ざかる。

🧠用語解説

用語解説
すがたを見る外見・現象・事象を表面的に知覚すること。
吟味して見る本質や因果、構造を洞察しようとする「観察的知性」の働き。
何がある/無い仏教的には「縁起」に基づく。条件があると結果が起こり、条件が無いと起こらない、という因果構造。

🪷全体の現代語訳(まとめ)

なぜ、表面しか見ない人は、
その背後にある意味を観ようとしないのだろう?

なぜ、そもそも「見ることができない人」は、
深く観るという行為すら起こらないのだろう?

では、どのような条件がそろえば、
人は表面を越えて「観る」ようになるのか?

そしてまた、何が欠けていれば、
人はいつまでも「見る」だけで終わってしまうのか?


🌱解釈と現代的意義

この節は、「なぜ観ることができないのか?」という問いを通して、
私たち自身の認知・思考の癖に気づかせてくれます。

現代においても、人が本質に到達できない理由は、
情報の不足ではなく、「観ようとする意志と条件」が不足しているためです。

この節は言い換えれば、
**「気づく力を育むには、どんな土壌が必要か」**という問いでもあります。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点実務への応用例
成長の条件問題に気づける人は「内省・観察・疑問を持つ習慣」がある。逆に、気づけない人は「常に受け身・慣れ・無批判」で思考が停止している。
マネジメントメンバーが“見るだけ”にとどまっているのか、“観る”力があるのかを見極め、前者には条件(問い・経験・責任)を与えて育てる。
研修設計ただ情報を与えるだけではなく、「問いを立てさせる」「振り返らせる」プロセスを設けることで、観察力を開花させる。
自己成長自らに問いを発する習慣(例:「なぜ私はそう思ったのか?」)が、洞察力の起点になる。

📝心得まとめ

「問いが無ければ、観察も無い。
観察が無ければ、真実も見えない。」

人は、見るだけの存在では終わらない。

観ようとする「心の条件」を備えたとき、
はじめて世界の奥行きが立ち現れる。

観る力は、育てるものである。
それは、無意識ではけっして得られない。


この第三十九節は、「認識とは何か」「気づきとは何に依存して起こるのか」という、深層心理学的・哲学的問いを私たちに投げかけてくる名句です。

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