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観る者は、すがたに惑わされない


目次

📖引用原文(日本語訳)

もしもすがたをさらに吟味して見るのであるならば、
単にすがたを見るということは無い。
またもしも単にすがたを見るのであるならば、
すがたをさらに吟味して見るということは無い。

ここの人は、単にすがたを見るだけであって、
すがたをさらに吟味して見るということが無い。
しかしすがたをさらに吟味して見る人は、
つねにすがたを見ることがない。
――『ダンマパダ』 第二七章「観察」第三十八節


🧩逐語訳と構成的解釈

  • 「単にすがたを見る」:表面を視覚的に受け取るだけ。即ち感覚に流され、形や印象で判断する行為。
  • 「すがたをさらに吟味して見る」:背後の意味や構造・動機・因果を観る深い洞察。仏教では「観(ヴィパッサナー)」の実践的行為。
  • 「両立しない」:どちらか一方のモードでしか人は世界を認識できないという二分性。つまり、「見る」か「観る」かの選択である。

🧠用語解説

用語解説
すがた(形)対象の外見や現象。
見る(passati)感覚的・視覚的な受容。
吟味して見る(サンパッシ)意識的な観察、意味づけ、洞察の行為。
この人愚者・無明の人を指す。

🪷全体の現代語訳(まとめ)

もし、ある人が物事を深く観察しているならば、
彼は決して、ただ表面的に「見ている」ことはない。

逆に、ただ目に映るものだけを見ている人は、
そこに何の本質的意味も見出そうとはしていない。

だから、「見るだけの人」は、
いつまでも外見にとどまり、
「観る人」は、そこを超えて、
もはや「すがた」としては見ないのだ。


🌱解釈と現代的意義

この節は、「観る」ことと「見る」ことが根本的に同居できないという断言的な真理を伝えます。

これは、仏教的には「観照と妄執の不両立」を意味し、
日常においては「表層判断にとどまる人は、本質を理解することがない」という教訓になります。

我々は、つい印象・雰囲気・流行に影響されやすく、
「見たつもり」になって本質を見逃しがちです。
しかし、物事を深く観る者は、もはやその“見た目”には惑わされません。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点実務への応用例
判断の質の差顧客の行動・社員の発言・市場の動向を“表面”で捉えるのか、“動機や構造”で観るのかで、戦略も変わる。
意思決定の深化「売上が伸びている=良い」ではなく、「なぜ伸びているのか」「持続性はあるのか」を観る姿勢が必要。
リーダーシップの資質リーダーは表層的な成果だけを評価せず、背後の努力・文脈・成長プロセスを見抜けるかが問われる。

📝心得まとめ

「“見ている”と思った瞬間に、真理から遠ざかる」

観る者は、姿にとらわれず、
見る者は、姿から離れられない。

人を見たつもりにならず、
物を知ったつもりにならず、

その奥に何があるのか
何が働いているのかを問い続けることが、
真理に近づく道である。


この第三十八節は、**「見るか観るか、それがすべてを分ける」**という洞察の極致に達した言葉です。
「観察」というテーマの章にふさわしく、私たちの日常的な認識の質を問い直してくれます。

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