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泡と陽炎に執するな、死さえも届かぬ眼を養え


目次

📖引用原文(日本語訳)

世の中は沫のごとしと見よ。
世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
――『ダンマパダ』 第二七章「観察」第十五節


🧩逐語訳

  • 沫(あわ)のごとし:水の泡のように、儚く不確かで、すぐに消えるもの。
  • かげろうのごとし:陽炎(かげろう)のように、実体があるように見えて幻であること。
  • このように観ずる人:無常・空・非実体性を見抜く智慧を持つ者。
  • 死王(マーラ):仏教における“死と迷妄”の象徴。欲望や無明の根源的力。
  • かれを見ることがない:真理を見た者は、生死の束縛(輪廻)から離れ、死すら支配できない。

🧠用語解説

  • マーラ(死王):死や迷妄を司る存在。仏道の修行者を妨げる煩悩・恐怖・誘惑の象徴でもある。
  • 沫(ばつ)・陽炎(ようえん):『金剛般若経』でも用いられる“非実体性”の象徴。実在と思えるものも本質的には空。
  • 観ずる(ヴィパッサナー):深い洞察をもって世界を見ること。仏教における智慧の実践的到達点。

🪷全体の現代語訳(まとめ)

この世の現象――名声、富、苦しみ、喜び――それらはまるで水に浮かぶ泡のように、瞬く間に消え去るもの。
あるいは陽炎のように、確かに見えて、実はつかめぬ幻のようなものである。
この真理を深く見抜き、執着を離れた者には、死や苦しみの王さえ、その影を捉えることができない。


🌱解釈と現代的意義

この句は、人生の現象世界を「実在」と見なすことの危うさを説いています。
私たちは日々、出来事や物、他者の評価に一喜一憂し、そこに“真の価値”があるかのように感じますが、仏教はそれらを「泡」や「陽炎」に例えます。
つまり、表面的な現象にとらわれる限り、真理も安らぎも得られない。
しかし、それらを“幻”と見抜く眼を持った者は、死すらも恐れず、束縛を超えて自由に生きることができる――これがこの節の核心です。


💼ビジネスにおける解釈と適用

観点実務への応用例
成果・名声への過信売上や称賛に一時的に満たされても、それは泡のようなもので、次の波に翻弄される。
不安・苦悩の軽減起きたトラブルや失敗も、永遠には続かない。「陽炎」と見る視点が、心の回復力を高める。
経営の本質把握流行や表層的なKPIではなく、長期的な価値や信頼の「実体」に注目する判断が求められる。
精神的レジリエンスすべてが移ろう存在であると知ることが、冷静で柔軟なマインドを育む鍵となる。

📝心得まとめ

「泡に惑うな、陽炎に焦がれるな。真理を観る眼は、死すら超えてなお静かに在る」

この世の出来事や形あるものにしがみつく限り、心は波に飲まれる。
しかし、それが本質的に「一時の幻」であると見抜けたとき、
恐れも怒りも喜びさえも、穏やかな距離をもって受け止められる。
その眼をもつ者には、死さえも“到達できない”――それが智慧の力なのです。


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