目次
📖引用原文(日本語訳)
学ぶことに生きがいを認め、
奉仕(看護)を楽しむために、(戒律をまもって)生き、
ブラフマンを奉じた生活を送っている人々がいる。
これは一つの極端説であると説かれている。
――『ダンマパダ』 第二七章「観察」第十一節
🧩逐語訳
- 学ぶことに生きがいを認め:学問・知識の習得に喜びや意義を見出す。
- 奉仕(看護)を楽しむために:他者の世話や支援に生きる喜びを見出す。
- 戒律をまもって生き:仏教の戒律(シーラ)に従い、清らかに生きようとする。
- ブラフマンを奉じた生活:古代インドにおける聖なる存在(ブラフマン)への信仰に根ざした敬虔な生活。
- 一つの極端説である:たとえ善に見えても、それに囚われることは偏りであり、中道ではないとされる。
🧠用語解説
- 極端説(アンタ):仏教で避けるべき「両極の見解」。快楽主義と苦行主義、または善悪への過度な執着など。
- 中道(マッジマ・パティパダー):仏教の根本思想。極端を避け、真理に至る中庸の道。
- ブラフマン信仰:ヒンドゥー教系の世界観における宇宙の根源的存在。仏教ではそれすらも執着の対象となりうるとする。
- 奉仕・学び・戒律:いずれも徳ある行いであるが、それに“執着”すれば修行の妨げにもなる。
🪷全体の現代語訳(まとめ)
ある人々は、学ぶことや人への奉仕、戒律を守ること、信仰に基づいた生活に強く価値を見出している。
それらは一見、尊く清らかな生き方に見えるが、それ自体に囚われすぎれば、「もう一つの極端」に過ぎない。
仏教では、それらの“善なる行為”ですら執着となる可能性を見抜き、智慧をもって中道を歩むことを説いている。
🌱解釈と現代的意義
この節は、驚くべき深さをもって、私たちの「善への執着」を警告します。
努力や勉強、奉仕や道徳――これらはいずれも社会的に称賛される行為ですが、
「それをしている自分」に価値を見出し、それに固執しはじめたとき、それはもはや“善”ではなく、“我執”の温床となるのです。
真に自由な精神は、善を行いながらも、そこに自己の誇りや執着を持ち込まず、ただ清らかに「為すべきことを為す」姿勢にあります。
💼ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 実務への応用例 |
---|---|
成果主義の落とし穴 | 「努力している自分」に酔うと、他人を見下したり、柔軟さを失ったりする。目的を忘れた“手段の絶対化”に注意。 |
道徳アピールのリスク | 奉仕・CSR・倫理を掲げながらも、それを「優位性の主張」として使えば、本質から逸れる。 |
ルールへの過剰適合 | 規則や手順に固執しすぎると、状況に応じた柔軟性や創造性が損なわれる。 |
信念と中道のバランス | 強い信条を持つことは大切だが、それに固執せず常に全体調和と事実を見つめ直す姿勢が、長期的な成長につながる。 |
📝心得まとめ
「善であれ、それに執するな。真に自由な者は、善すらも超えてゆく」
学び、奉仕し、清らかに生きることは素晴らしい。
だが、それを誇りとし、固執するならば、それはもはや“中道”から逸れた極端となる。
真理の道は、善悪を超えて静かに歩まれるもの――
それを知る者こそが、静けさと智慧に満ちた本当の実践者である。
コメント