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■原文(出典:『ダンマパダ』第十七章 第九偈)
もしも水がどこにでもあるのであるならば、
どうして泉をつくる必要があろうか?
妄執の根を取り除いたならば、
さらに何を求める要があろうか?
■逐語訳
- もしも水がどこにでもあるならば:すでに水(=潤い・必要なもの)が満ちているとしたら、
- どうして泉を作る必要があろうか?:新たに水源を掘る理由があるだろうか。
- 妄執の根を取り除いたならば:欲・怒り・無知など、迷いの根源を断ち切ったならば、
- さらに何を求める要があろうか?:もはや新たに何かを得ようとする必要などあるだろうか?
■用語解説
- 水:ここでは「真理」や「心の満足」「充足」「解脱の智慧」を象徴。
- 泉をつくる:さらに別の水(満足)を得ようとする努力。足りないという思いの象徴。
- 妄執(もうしゅう):誤った観念への執着。貪欲・怒り・無知(煩悩)の根であり、心を縛る要因。
- 妄執の根を除く:自己の内面を深く見つめ、誤った執着の根本を断ち切ること(解脱への実践)。
- 求める要(かなめ):これ以上に欲する動機や理由、つまり「もっと何かが欲しい」とする欲求の源。
■全体の現代語訳(まとめ)
どこにでも水がある場所においては、わざわざ泉を掘る必要はない。
同様に、もしも内面の妄執(迷い)の根を断ち切ることができれば、
もはや外に何かを追い求める必要はない。
本当の満足と自由は、心の根源にある欠乏感を除くことによって得られる。
■解釈と現代的意義
この偈は、**「足るを知る者は自由である」**という深い洞察を与えてくれます。
外の世界をどれほど求めても、内なる執着や迷いがある限り、
真の満足にはたどり着けません。
しかし、妄執の根を取り除いたとき、心はすでに満たされており、
「何かを得たい」という欲求すら消え去る――それこそが悟りの境地です。
この教えは、物質的欲望や競争にあふれた現代社会において、
「満たされるとはどういうことか?」を深く問い直す機会を与えてくれます。
■ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 適用例 |
---|---|
過剰な目標主義の見直し | 終わりなき売上目標や拡大志向に囚われると、心はいつまでも満たされない。まず「なぜそれを求めるのか?」を問うべきである。 |
働き方の幸福論 | 報酬・称賛・地位を追い続けるより、「今ある仕事に意味を見出せているか」を見つめることが、持続的な満足につながる。 |
ミニマリズム的経営哲学 | 必要以上に事業を広げるより、執着を減らし、本質に集中する経営のほうが長期的な安定と幸福をもたらす。 |
内発的動機の再発見 | 他者との比較で動くのではなく、「自分が何に心から価値を感じるか」に気づいた人こそ、継続的なエネルギーを持てる。 |
■心得まとめ
「心が満ちれば、もはや外を掘る必要はない」
欲望の根を断ち切ったとき、人は気づく。
それまで追い求めていたものが、実は心の錯覚に過ぎなかったと。
満ちることとは、得ることではなく、求めなくて済む心を持つことである。
ビジネスにおいても、執着を手放した人こそが、最も自由で、最も豊かなのです。
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