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渡ったと思うなかれ――智慧の人のみが彼岸に至る


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■原文(出典:『ダンマパダ』第十七章 第七偈)

大海原を渡る人々は、つねに立派な筏をつくって渡る。
(かれらは河を渡ったのだと思っているが、実は)河を渡っていないのだ。
聡明なる人々のみが(迷いの大河を実際に)渡っているのである。


■逐語訳

  • 大海原を渡る人々は、つねに立派な筏をつくって渡る:人々は努力し、技術を尽くして人生を航行しようとする。
  • かれらは河を渡ったと思っているが:外見上は成功した、達成したと見えても、
  • 実は渡っていないのだ:真の解脱、あるいは迷いの根本的克服には至っていない。
  • 聡明なる人々のみが実際に渡っているのである:本当に煩悩を離れ、智慧を得た者のみが、彼岸に到達している。

■用語解説

  • 大海原(または「河」):生死・苦悩・無明・煩悩の世界。仏教における「迷いの世界(サンサーラ)」を象徴。
  • 筏(いかだ):仏法・知識・修行・技術など、人生を渡るための手段や努力。
  • 渡る:彼岸(悟り・解脱)に至る。真の意味で迷いの世界を超えること。
  • 聡明なる人:知識だけでなく、実践と内観によって智慧を得た者。執着を離れ、真理を体得している人。

■全体の現代語訳(まとめ)

人は努力し、知識や技術を積んで人生という大海を渡ろうとする。
しかし、その航海が成功したように見えても、それはあくまで表面的な通過に過ぎない。
真に迷いを超えて解放された者はごくわずかであり、それは知識だけでなく、智慧と深い自省によって達成される。
悟りは形ではなく、内なる成熟によってのみ到達されるのだ。


■解釈と現代的意義

この偈は、「表面的な成功達成感を過信してはならない」という教えです。
たとえ大きな目標を達成し、他者から賞賛を得たとしても、内面の迷いが消えていなければ、
それは真の「彼岸」に達したとは言えません。
世俗的な成功よりも、「心の清澄さ」や「智慧の成熟」が本質的な解脱をもたらすのです。
現代社会においては特に、「成果主義」に隠された虚しさへの警鐘ともいえます。


■ビジネスにおける解釈と適用

観点適用例
見かけの成功と内面の空虚売上・肩書・実績があっても、自らの目的と一致しないなら、それは「渡ったふり」である。
真のリーダーシップ数字での勝利ではなく、組織の本質的成長や人の心を導ける智慧を持つ人が「本当に渡った」人。
目的意識の重要性成功のプロセスをこなすことが目的化すると、本質的な意味を見失う。道具(筏)と目的(悟り)を混同してはならない。
成熟した自己認識自己満足ではなく、内省を重ねてこそ、本当の意味で自分の歩みを超えていける。

■心得まとめ

「筏を立派にしても、迷いの岸に留まっているかもしれない」

達成や技術に酔いしれることなく、
自らの心がどれだけ迷いを越えているかを見つめよ。
渡ったつもりでいても、なお同じ岸に立ちすくんでいるかもしれない。
真に渡るのは、智慧と覚悟を持ち、内面を照らす者だけなのだ。

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