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無一物、無執着――それが真の尊さである


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■引用原文(日本語訳)

私は、(バラモン女の)胎から生まれ、バラモンの母から生まれた者を〈バラモン〉とは呼ばない。
彼は、他人から『きみよ』と呼ばれるにすぎない。
彼はいまだ、何かを所有していると思っている。
無一物であり、執着を離れた人――その人をこそ、私は〈バラモン〉と呼ぶ。

(『ダンマパダ』第396偈|第二六章「バラモン」)


■逐語訳

  • Na brāhmaṇassa yonito:バラモンの家に生まれたからといって
  • Na mātito sa hoti so:バラモンの母から生まれたからといって
  • Yañhi so “bhāsitaṃ” nāma:「〜さん」と人から呼ばれても
  • So ca hoti sakiñcano:彼はいまだ何かを「所有している」という心を持つ
  • Akiñcanaṃ anādānaṃ:無一物で、何も執らない人
  • Tam ahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ:その人こそ、私は〈バラモン〉と呼ぶ

■用語解説

  • バラモンの胎(yonito)/母(mātito):血統・家系・出自の象徴。
  • 「きみよ」(bhāsitaṃ):名前や敬称で呼ばれる存在、つまり社会的な役割や呼称を意味する。
  • 所有の思い(sakiñcano):モノ・地位・人間関係・知識などに「これは自分のもの」と執着する心。
  • 無一物(akiñcanaṃ):物質的に何も持たず、心に何の執着もない境地。
  • 執著のない人(anādānaṃ):「取る」心を完全に離れた者。無執着=解脱の境地を意味する。

■全体の現代語訳(まとめ)

バラモンの家に生まれ、母もバラモンであるからといって、その人を〈バラモン〉と呼ぶことはできない。
人々に「〇〇さん」と尊称で呼ばれていたとしても、その人の心に「これは私のもの」という所有意識がある限り、それは単なる名前にすぎない。
真にバラモンと呼ばれるのは、一切を所有しようとせず、何にも執着しない、完全なる自由を得た人である。


■解釈と現代的意義

この偈は、「地位」「名前」「肩書き」「出自」といった世俗的なラベルではなく、無執着という実践によってこそ人の尊さが定まることを明確に教えています。
現代においても、名刺に書かれた肩書きや、生まれ持った背景で判断されがちですが、仏教はあくまで内面の状態こそが人間の本質を決めると説いています。

執着とは、「これが自分のもの」「これを手放したくない」という感情の根であり、それが苦しみや競争、怒りの原因となります。
それを超えた者こそが、静かで自由な人生を歩むことができるのです。


■ビジネスにおける解釈と適用

観点適用例
役職・肩書の超越名刺の肩書きや表面的な敬称に依存せず、「本質的にどんな価値を提供できるか」で自己を評価する。
所有への執着からの脱却報酬・物質・人脈に過度な執着をせず、手放す勇気を持つことで、新たな価値創造が可能になる。
評価にとらわれない働き方「どう見られるか」ではなく、「本当に必要なことをしているか」に軸を置いた行動が、信頼と自信をもたらす。
ゼロベース思考と自己刷新自分の「これまで」や「持ち物」に縛られず、常に自由な発想と新しい挑戦を可能にする精神の柔軟さ。

■心得まとめ

「すべてを持たぬ者が、すべてから自由である」
名前や地位、財産や人間関係にとらわれることなく、
「これが自分のもの」という執着を捨てたとき、
はじめて人は本当の自由と尊厳に出会う。
ビジネスの世界でも、「持っているかどうか」ではなく、
「執着していないかどうか」が、心の余裕と判断力、
そして真のプロフェッショナリズムを育む鍵となるのです。


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