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■引用原文(ダンマパダ 第二〇章「道」第284偈)
たとい隠者であろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。
乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。
■逐語訳
- たとえ修行者(隠者)であっても、
- 異性(ここでは男にとっての女)に対する欲望が断たれていなければ、
- その心はなおも束縛されている。
- それは、乳を飲む子牛が母牛を離れられず慕い続けるようなものだ。
■用語解説
用語 | 解説 |
---|---|
隠者(修行者) | 世俗を離れ、精神的修行を行う者。出家者、比丘とも重なる意味を持つ。 |
欲望(カーマ) | 仏教では五欲(食欲・色欲・名誉欲・睡眠欲・財欲)の一つであり、とくに異性への執着は強い煩悩とされる。 |
束縛(バッダ) | 煩悩によって自由な心を失っている状態。欲望への執着は精神の自由を妨げる。 |
子牛と母牛の譬喩 | 子牛が母を恋い慕うように、欲望の対象に心が引き寄せられ、離れられない様を象徴する比喩。 |
■全体の現代語訳(まとめ)
たとえ出家して修行者となったとしても、内面に異性への欲望が残っていれば、その心は真に自由とは言えない。
その執着は、乳を求めて母牛を慕い続ける子牛のように、強く人を縛りつけてしまう。
真の自由を得たいならば、外的な姿よりも内なる欲望の断捨が重要である。
■解釈と現代的意義
この偈は、形だけの修行・形式的な自制では不十分であり、内面的な執着こそ問題であるという本質的なメッセージを伝えています。
現代社会においても、「自由でありたい」「自律したい」と願いながら、実際には欲望や感情に振り回されている人は少なくありません。
仏教は、欲望そのものを否定するのではなく、「執着していること」を問題とします。
そのためには、自分の心が何に縛られているのかを観察し、手放していく訓練が必要です。
■ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 応用例 |
---|---|
見せかけのプロ意識 | 外見や肩書きが立派でも、内面が「欲」や「承認欲求」に支配されていれば、判断がぶれたり信頼を失ったりする。 |
意思決定の純度 | 欲望(利益・名声・異性など)によって判断が左右されると、本来の目的や価値判断が歪む。 |
自律的行動の障害 | 感情的な執着や誘惑に流されると、継続的な実践や誠実な対応ができなくなる。 |
内省の重要性 | 自分が「何に縛られているか」を見抜く能力は、リーダーや意思決定者にとって必須の自己管理スキルである。 |
■心得まとめ
「心が何に縛られているか――それを知らぬ者に自由はない」
外的な行動よりも、内面の執着こそが心を不自由にする。
たとえ高い地位にいても、欲望に心が引きずられている限り、真の意味での判断力と信頼は得られない。
自由な行動と精神の解放のために、「執着を観る眼と、手放す勇気」を磨いていこう。
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