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沈黙よりも、智慧ある判断が“聖者”をつくる


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📜 引用原文(『ダンマパダ』第十九章 二六八–二六九)

ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が〈聖者〉なのではない。
秤(はかり)を手にもっているように、いみじきものを取り、
もろもろの悪を除く賢者こそ〈聖者〉なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。
この世にあって善悪の両者を秤にかけてよく考える人こそ〈聖者〉とよばれる。


📝 逐語訳

「ただ黙っているからといって、愚かで混乱し、無知な人が〈聖者〉であるとは言えない。
まるで秤(はかり)をもつ者のように、価値あるものを選び取り、
すべての悪しき行いを退ける賢明な者――その人こそが〈聖者〉である。
この世界において、善と悪の両者を冷静に計り、よく考えて判断する者が、
真に〈聖者〉と呼ばれる。」


📖 用語解説

用語意味
沈黙(トゥーニー)話をしないこと。しばしば「賢そう」に見えるが、必ずしも智慧を意味しない。
聖者(ムニ)真理を実践する者。行いと智慧を備えた静かな修行者。単に無言の人ではなく、悪を離れ善を選ぶ判断力ある人。
いみじきもの(スーバ)善なるもの・価値あるもの・清らかな行為。
秤(はかり)にかける善悪・正邪・価値の重みを冷静に比較・判断すること。
もろもろの悪を除く(パーパ・ヴィヴァジャヤ)貪り・怒り・愚かさなど、あらゆる煩悩を断つ実践。

🌏 全体の現代語訳(まとめ)

黙っているからといって、それだけでは聖者とは言えない。
もしその沈黙が無知や迷いから来るものであれば、それは真の智慧ではない。
本当に聖者と呼ばれるにふさわしい人とは――
善と悪の区別を明確に見極め、価値あることを選び取り、
内なる悪をしっかりと断ち切って行動する、賢明で思慮深い人なのである。


🔍 解釈と現代的意義

この偈は、「沈黙=知性・賢さ」といった一面的な評価を否定し、
「沈黙に見える賢者」と「実は愚かさに沈む者」を明確に区別しています。
本当の〈聖者〉とは、ただ言葉を慎む人ではなく、
善と悪の微細な違いを見分け、行いを清め、意志ある沈黙と行動を選べる人です。
それは、単なる思考停止ではなく、深い判断力と倫理観をもった生き方の証です。


💼 ビジネスにおける解釈と適用

観点解釈・適用
沈黙の中の質を見極める話さない人が必ずしも「考えている」わけではない。沈黙が戦略的か無自覚かを見極める力が必要。
判断力と行動力の両立真に尊敬される人物は、状況をよく見極めたうえで適切に「語り」「動く」。判断なき沈黙は責任放棄となる。
意思ある沈黙と対話のバランス相手の言葉を慎重に受け止め、適切なタイミングで判断・発言・行動できる人が信頼を得る。
倫理的リーダーシップ善悪を秤にかけ、正しい選択を続けられるリーダーが、組織を健全に導く力を持つ。

🧠 心得まとめ(ビジネス向け)

「黙して語らず、しかし見極めて行動せよ」

沈黙が賢さの証とは限らない。
本当に賢い人は、言葉少なでも、心は明晰で、行いは正しい。
正義と悪を見分ける力を持ち、判断し、清らかに動く――
その静かな力が、組織を、社会を導いていく。

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