一、章句(原文)
老老毛は得方にするものと覚えたり。気力強き内は差引をして隠し果すれども、衰へたる時、本体の得方が出で、恥しきものなり。… 六十に及ぶ人の老老毛せぬはなし。せぬと思ふところが早や老毛なり。
二、現代語訳(逐語)
人は老いると、本性(地)が表れるものらしい。気力のあるうちは、理性でそれを押さえて隠していられるが、衰えてくると素の姿がにじみ出てしまう。これはまことに恥ずかしいことである。
老い方にはいろいろあるが、六十歳にもなれば誰しも何らかの“老耄(もうろく)”を起こすものだ。
「自分はまだ老いていない」と思うこと自体が、すでに老耄の兆候なのである。
わが師・石田一鼎も、思えば「理屈でもうろく」していた。
自分ひとりで主家を支えるつもりになり、老いた姿で高官たちのもとを駆け回っていた。周囲は「さすがだ」と感心していたが、今思えば、それも一つの老耄である。
私自身も老いをひしひしと感じるようになったので、主君・光茂公の十三回忌を最後に、お寺への参詣をやめ、ますます外出を控えることに決めた。
老い先を見越して、引き際をわきまえなければならぬ。
三、用語解説
用語 | 解説 |
---|---|
老老毛(ろうろうもう) | 老いによる耄碌(もうろく)のこと。理性・感情・判断力の衰えを含意する。 |
得方(えかた) | 本性・本来の姿。隠していた性質や癖。 |
理屈もうろく | 年老いて理屈っぽくなり、空回りする様子への批判的表現。 |
禁足 | 外出や活動を控えること。自らの衰えを受け入れた生き方。 |
四、全体の現代語訳(まとめ)
人間は年を取ると、若い頃には理性で抑えていた「本性」が表に出てくる。
常朝は、尊敬する師・石田一鼎ですら、老いて理屈でものを言い、周囲に“迷惑な忠義”を見せていたと振り返る。かつては「さすが」と思っていた行動も、老いて自覚を持てば「老耄の表れ」と見えるようになった。
そして、自らも「老いの兆し」を実感し、十三回忌以降は表舞台から退くことを決断する。
これは単なる衰えの受容ではなく、「美しく老いる」ことへの自覚的な取り組みである。
五、解釈と現代的意義
1. 老いは誰にでも訪れるが、自覚するか否かが分かれ目
常朝は「誰しも老耄する」と言い切る。それは否定するのではなく、むしろ認めることから始まる真の人間理解への道である。
2. 理性の仮面が外れるとき、本当の自分が現れる
老いは“本性の露呈”でもある。気力があるうちは隠していた癖や傲慢さが、衰えとともに露見する。だからこそ、老いは人生の“仕上げ”としての価値を持つ。
3. 引き際の美学
常朝は「見苦しくなる前に退く」ことを選ぶ。この態度は、現代においてもポジションや影響力に固執しない勇気として高く評価されるべきである。
六、ビジネスにおける解釈と適用(個別解説)
項目 | 解釈・適用例 |
---|---|
リーダーの引き際 | 役職や影響力に執着せず、自分の存在が組織の健全性を損なう前に退く判断を持つ。 |
セルフマネジメント | 年齢に応じて、能力・役割・言動のバランスを見直し、周囲と自分に対して誠実であること。 |
人間力の見極め | 成果よりも、「老いてなお尊敬される人かどうか」が最終的な人間の評価基準になる。 |
若手へのメッセージ | 「老い方を見て人を学ぶ」ことが、最も深い教育になる。 |
七、心得まとめ
- 老いは避けられぬ。しかし、どう老いるかは自分で選ぶことができる。
- 本性は、衰えたときにこそ現れる。だからこそ、若いうちから“誠実に生きる”ことが重要である。
- 見苦しい老い方を避けるためには、「自覚」と「潔さ」が欠かせない。
- 最後の姿が美しい人こそ、人生を全うした人物である。
- 引き際に誠が宿る。去り際に人が見える。
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