一、章句(原文)
六十、七十まで奉公する人あるに、四十二にて出家致し、思へば短き在世にて候。…
十四年安楽に暮し候事、不思議の仕合せなり。それにまた、我等を人と思ひて諸人の取持に合ひ候。我が心をよくよく顧み候へば、よくもばけ済ましたる事に候。諸人の取持勿体なく、罪も有るべきとのみ存じ候事に候。
二、現代語訳(逐語)
六十歳、七十歳まで奉公を続ける者もいる中で、自分は四十二歳で出家し、思えば短い現役人生だった。
それにしても、ありがたいことである。主君・光茂公が逝去されたとき、まるで自分も死ぬかのごとく出家を決意したが、今になって思えば、もしそのまま勤め続けていたら、非常な苦労を味わっていたことだろう。
以後十四年間、静かに、安らかに暮らせたことは思いもよらぬ幸福である。
そればかりか、こんな自分を立派な人物と思い、みなが丁重に付き合ってくれる。
自分の心をよくよく省みると、「よくもこんなに化けて見せられたものだ」と感じてしまう。
人々のもてなしが恐縮で、「これはいずれ罰があたるのでは」と思わずにはいられない。
三、用語解説
用語 | 意味・解説 |
---|---|
出家 | 常朝は主君の死に殉ずる代わりに、隠棲して俗世を離れた。 |
ばけ済ましたる | 実態以上に評価されていることに対しての謙遜的自己認識。 |
諸人の取持 | 周囲の人々のもてなしや丁重な扱い。 |
罪もあるべき | 自分には不相応な待遇を受けていることに対する後ろめたさ。 |
四、全体の現代語訳(まとめ)
常朝は、主君の死を機に出家し、その後十四年間、静かで穏やかな日々を過ごした。
本来であれば現役でさらに奉公を重ねたかもしれないが、思いがけない穏やかな余生に、感謝と驚きを感じている。
その一方で、自分が特に功績を立てたわけでもないのに、周囲から「立派な人物」と見られ、丁重に扱われていることに対し、**「よくも化けて見せられたものだ」**と、ある種の自己否定や虚無感をにじませる。
この章句には、名誉と内省が同居する武士の複雑な感情が滲み出ており、単なる謙遜ではなく、深い自己理解と社会的役割への批評が込められている。
五、解釈と現代的意義
1. 「見られる自分」と「本当の自分」のずれ
常朝は「人からは評価されているが、実はそんな人間ではない」と語る。この感覚は、現代のSNSや評価制度にも通じ、自己像と他者像のギャップに悩む現代人にも非常に共鳴する。
2. 謙遜ではなく「虚無」
これは「私は未熟です」という謙遜ではない。むしろ「自分という存在が、人々にとって都合よく意味づけられている」という、**“人間存在の演技性”**に対する冷静な洞察である。
3. 人生の後半で見えてくる「幸福とは何か」
苦労を免れ、静かに暮らせた十四年を「思いもかけぬ仕合せ」と語る常朝。これは「達成よりも、安寧や心の自由を得ることの価値」に目覚めた者の言葉でもある。
六、ビジネスにおける解釈と適用(個別解説)
項目 | 解釈・適用例 |
---|---|
リーダーの自省 | 権威を持ったときこそ、「自分の中身が伴っているか?」と問い直す内省が求められる。 |
評価と実像の乖離 | 他者からの評価に依存しすぎると、自分を見失う。真の自己認識を保つ訓練が必要。 |
キャリアの終盤 | 成果や昇進よりも、心穏やかに生きられる時期をつくることが本当の仕合せである可能性。 |
偽りの成功感への警鐘 | 表面の成功よりも「誠実さ」「心の平安」を大切にすることが、長期的に信頼を生む。 |
七、心得まとめ
- 人は見られている姿と、本当の姿のあいだで揺れる。それを自覚することが誠実さの始まり。
- 過度な自己演出や評価への執着は、いずれ「よくも化けすましたものだ」と己を責める日を招く。
- 真の評価とは、他人が与えるものではなく、「最後に自分で下すもの」である。
- 人生後半の仕合せは、誇りと静けさの両立にある。余白を楽しむ勇気を持とう。
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