一、原文抄出
盛徳院殿死去の時、追腹人光茂公差留められ候。御使、彼の屋敷に参り申渡し候へども、とかくお請申上ぐる者これなく候。
その中に石丸采女(後名清左衛門)末座より申し候は、
「若輩者の推参に候へども、御意の趣ごもつともに存じ奉り候。私儀山城殿の座を直し候者に候へば、一途に追腹と存じはまり候へども、殿様御意を承り、その理に詰り候上は、面々はともかくも、某に於ては追腹存じ留り、世継に奉公仕るべく候」と申し候に付て、いづれも同然にお請申上げ候由。
(聞書第六)
二、書き下し文
盛徳院殿がご逝去の際、追腹を望む者たちに対し、光茂公がこれを差し止められた。
その命令を使者が屋敷に伝えたが、その場に居合わせた家臣たちは、誰一人として先に従う意を表さなかった。
そのとき、末座にいた石丸采女(後の清左衛門)が進み出て、
「若輩者の分際で恐縮ですが、殿の仰せはもっともと存じます。私はお側に仕えており、本来なら追腹をと覚悟しておりましたが、殿の御意に従い、命に従うのが道理と心得ます。ゆえに、私一人でもお仕えを続けたく存じます」
と言上した。
これをきっかけに、他の者たちも追腹を思いとどまったという。
三、現代語訳(まとめ)
盛徳院殿(鍋島直弘)の死去に際し、家臣たちは当然のように追腹(殉死)するつもりでいたが、二代藩主・光茂公がこれを全面的に禁止する命令を出した。
この突然の方針転換に対し、現場では誰も先に受け入れを表明できなかった。
そのとき、若輩の石丸采女(のち清左衛門)が進み出て、「私は命令に従い、世継に仕えます」と明言した。
この勇気ある発言により、一同も追腹を断念し、命令に従う流れができた。
四、用語解説
用語 | 解説 |
---|---|
盛徳院殿 | 鍋島勝茂の四男・直弘。佐賀藩分家の祖。 |
石丸采女 | のちの清左衛門。若輩ながら、理と忠誠を貫いた人物。 |
追腹(おいばら) | 主君の死に殉じて切腹すること。戦国~江戸初期にかけて武士の美徳とされた。 |
山城殿の座を直す | 側近または側役の職に就いていたことを指す。 |
五、解釈と現代的意義
■ 言いにくい“正論”を、誰よりも早く言う勇気
追腹は当時の武士社会では名誉ある慣習であったが、それを禁止する命令を最初に肯定する行為は、若輩であればなおさら大きなリスクを伴った。
石丸来女は、自らの感情や周囲の空気に流されず、「殿の命令が理にかなっている」と判断して行動した。
これはまさに「理に殉じた忠義」である。
■ “従う”こともまた忠義の一つ
命を賭して主に殉ずるだけが忠ではない。生きてその意思を継ぎ、支えることも忠誠の一形態であることが示されている。
六、ビジネスへの応用・教訓
教訓 | 応用シーン |
---|---|
勇気ある意見表明が組織の空気を変える | 重大な方針転換(例:旧制度の廃止、組織改革)時、誰も意見を言わない場面での最初の発言は、非常に大きな意味を持つ。 |
論理に従う忠誠が、結果的に大義を支える | 上司の命令が理にかなっているならば、空気に流されずその決断を支持する姿勢が組織の安定につながる。 |
若手の一声がベテランを動かすこともある | 「年功序列」や「上下関係」が強い職場であっても、若手の信念ある発言が組織に新しい風を吹かせる。 |
✅結びの心得
忠義とは、時に沈黙を破る勇気なり。
命令に従い、理に仕えることこそ真の忠である。
この逸話は、殉死という武士道の極致において、「生きることが忠義になる転換点」を象徴しています。
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