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動いていても、心が眠れば人形同然


一、原文の引用と現代語訳(逐語)

原文抄(聞書第二より)

道すがら、何とよくからくつた人形ではなきや。糸を付けてもなきに、歩いたり、飛んだり、はねたり、物まで言ふは上手の細工なり。
来年の盆には客にぞなるべき。さても、あだな世界かな、忘れてばかり居るぞと。

現代語訳(逐語)

  • 道すがら常朝は、「なんとまあ、よくできたからくり人形ではないか」と言った。
  • 糸もついていないのに、歩いたり、跳ねたり、喋ったりするとは、なんと上手な細工だ。
  • だが、来年のお盆には仏となって迎えられるかもしれない。
  • こんなにも儚いこの世の中であるのに、人はそのことをすっかり忘れて生きているのだなあ。

二、用語解説

用語解説
からくつた人形「巧みに仕掛けられた人形」。ここでは現代の人間の生き様を風刺している。
糸をつけてもなきに操り糸すらなく自立して動くように見える比喩。自由に見えて、実は無自覚な存在。
来年の盆には客にぞなるべき「今生きているこの人も、来年のお盆には死者となって迎えられるかもしれない」という意味。
あだな世界儚く、無常で、実体のない世界のこと。仏教的な“空”の概念とも関連する。

三、全体の現代語訳(まとめ)

常朝はある日、道を行き交う人々を見て「まるで仕掛け人形のようだ」と嘆いた。
糸もなく勝手に動いて喋るその様は、見事な細工ではあるが、命の儚さを考えれば、彼らの誰もが来年のお盆には仏として迎えられているかもしれない。
こんなにも無常な世界であるにもかかわらず、人々はそのことに全く気づかずに、浮かれて日々を過ごしている――。


四、解釈と現代的意義

この章句は、現代にも通じる**「自動的に生きることへの警鐘」**です。

私たちは日常のルーチンをこなしながら、「生きているつもり」になってはいないでしょうか?

  • 朝起きて、働いて、食べて、眠る…
  • 繰り返すうちに、思考を停止し、「本当に生きているのか」がわからなくなる
  • その無自覚な生の姿は、常朝にとって「からくり人形」に映ったのです

この章の核心は、「死が足元にあることを忘れてはならない」ということと、**“覚醒して生きよ”**という呼びかけです。


五、ビジネスにおける解釈と適用(個別解説)

項目解釈・応用
日常業務のマンネリ化作業を「やらされている」感覚が強くなると、行動は人形と変わらなくなる。自分の意志で“動いているか”を確認すべし。
意識的な判断と行動仕組みやルールに従って動くだけではなく、「なぜやるのか」「それで誰が喜ぶのか」を自分の言葉で語れる状態にする。
自己成長の停滞回避同じことを繰り返しているうちに、「考えること」を止めていないか?“からくり人形”にならぬよう、常に学びを内省する。
命と時間の有限性来年の自分が生きている保証はない。だからこそ、“今この瞬間”の対話・仕事・挑戦を真剣に行うべきである。

六、補足:常朝の「目覚めよ」という叫び

この章句で常朝が語っているのは、単なる風刺ではなく、覚醒への促しです。
「人形のように生きてはいないか?」「生きている“つもり”になっていないか?」という問いは、現代における“無自覚な自由”への鋭い批判ともとれます。

  • 外から見れば動いている
  • だが中身は止まっている
  • そして、その間にも“死”は確実に近づいている

常朝は“死を前提とした覚醒”を促すことによって、“今”を最も真剣に生きることを教えているのです。


七、まとめ:この章が伝えるメッセージ

  • 自分の足で歩いているか? それとも仕組みに動かされていないか?
  • 命の時間を“無自覚”に浪費するな。
  • 死は来年の盆かもしれぬ。だからこそ、今この瞬間を本気で生きよ。

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