一、原文の引用と現代語訳(逐語)
原文(抄)
松島の雲居和尚、夜中に山中を通られ候を、山賊出でて捕へ候。
雲居申され候は、「我は近辺の者なり、逓参僧にてはなし。金銀は少しも持たず、欲しくば着物をやるべし。命は助けよ」と申され候に付、
「さてはむだ骨折したり、着物などは用事なし」と云ひて通し申し候。
一町ばかり行過ぎて雲居立帰り、山賊を呼返し、
「我妄語戒を破りたり。銀一つ、前巾着にあるを、うろたへて忘れ、銀子これなしと申す事、是非に及ばず候。即ち遣はじ候間取り候へ」と申され候。
山賊感に絶え、則ち書を切り、弟子になり申し候由。
現代語訳(逐語)
松島の雲居和尚が夜中、山の中を歩いていると山賊に囲まれた。
和尚は、「自分は近隣の者で、旅僧ではないから金は持っていない。
もし欲しければ着物をやろう。その代わり命は助けてくれ」と言った。
山賊たちは「なんだ、損なことをした。着物など要らぬ」と言って通した。
ところが和尚は、一町(約100m)ほど進んだところで引き返し、
山賊を呼び戻してこう言った。
「私はさきほど“金は持っていない”と偽ってしまった。
慌てていて、巾着に銀が一枚入っているのを忘れていた。
これは“妄語戒”を破ったことになる。だから今ここでそれを渡す。受け取ってくれ」
これを聞いた山賊たちは感動し、髪を切ってそのまま弟子となったという。
二、用語解説
用語 | 解説 |
---|---|
妄語戒(もうごかい) | 仏教の五戒のひとつ。「嘘をつかないこと」。 |
逓参僧(ていさんそう) | 旅の途中にある僧。布施を求めて歩く行者の意。 |
書を切り | 髪を落とし、仏門に入る。出家の意志表示。 |
弟子になり申し候由 | 師に従い修行に入ること。心を改めた証でもある。 |
三、全体の現代語訳(まとめ)
雲居和尚は、危機に遭って自分を守ろうとしたとき、つい「金は持っていない」と嘘をついてしまった。
だが、そのわずかな偽りすら見逃さず、後から正直に告白し、たった一枚の銀貨を渡すために山賊のもとへ戻った。
その行為に心を打たれた山賊たちは、即座に改心し、師に従うことを決めた。
誠の行為は、言葉や力では動かせない人の心すら動かす力を持っているのだ。
四、解釈と現代的意義
誠実さは“余裕のあるとき”でなく、“窮地でこそ”価値を持つ
この話の本質は、自分の命がかかっていたにもかかわらず、嘘をついたことを悔い、正直に戻ったという“信義の徹底”です。
- 守れない状況であえて守る誠こそ、本物である。
- それが「人格の深さ」となり、人の魂にまで届くのです。
「たった一言の嘘」を軽視せず、誠実であることの威力
- 多くの人が見逃すような小さな嘘を自ら正すことで、「この人は本物だ」と思わせる。
- それは、言葉ではなく、行動で信頼を勝ち取る姿勢そのもの。
五、ビジネスにおける解釈と適用(個別解説)
シーン | 解釈・適用例 |
---|---|
クライアント対応 | 言い逃れや虚偽を後から正直に訂正し、謝罪・是正することで、かえって信頼を得る。 |
自社内のトラブル対応 | 小さな見落としや不備でも隠さず申告する文化を育てると、組織全体が強くなる。 |
リーダーとしての背中の見せ方 | 自分の非を率先して認め、行動で示すことが部下の尊敬を呼ぶ。 |
危機における判断基準 | 命や保身よりも「原則」を優先することで、チームや社会に対して長期的信頼を築く。 |
六、補足:「誠は力を超える」という普遍の教え
この話は、「強さ=暴力ではない」という倫理の逆転を表現しています。
雲居和尚は、山賊の力に屈することなく、「誠」という武器で逆に心を征服しました。
これは、武士道の理想である**“力より徳”、あるいは“勝っても心で負けるな”**という思想に通じます。
七、まとめ:この章句が伝える心得
「真の力とは、誠実さを貫く勇気に宿る。」
嘘を正直に詫びることは、恥ではない。それは人間の最も強い選択である。
そして、たった一つの正直な行動が、他者の人生をも変えることがある。本当に強い人は、命よりも信を守る。
それが『葉隠』が伝える“生きざま”の美学である。
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