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狂気の哲学――死身に生きる志


目次

一、章句の再確認と現代語訳(逐語)

原文(聞書第一より)

武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。
二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。
図に当らぬは大死などといふ事は、上方風の打上りたる武道なるべし。
二つ二つの場にて図に当るやうにする事は及ばざる事なり。
我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。
若し図にはづれて生きたらば腰抜けなり。この堺危きなり。
図にはづれて死にたらば、大死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
毎朝毎夕、改めては死に、改めては死に、常住死身なりて居る時は、
武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

現代語訳(逐語)
武士道とは「死ぬこと」であると見定めた。
生きるか死ぬかの選択を迫られたときには、すばやく死ぬ方を選べばよい。それだけのことで、理由などいらない。ただ腹を決めて進むだけだ。
失敗して目的を果たせなかった死を「大死」などと言って批判するのは、都風の理屈に過ぎぬ。
いかなる場面でも思い通りに事を運ぶのは不可能だ。
誰しも生きたいと思うから、つい都合のよい理屈をつけて生を選んでしまう。
だが、失敗して生き延びたなら、それは「腰抜け」である。その一線が危険なのだ。
失敗して死んだ場合、それは「大死」であり、「気違い沙汰」と呼ばれよう。だが、恥ではない。むしろ、これこそが本物の武道である。
朝に夕に死ぬ覚悟を新たにし、常に死を覚悟して生きるならば、真の自由を得て、一生を誤ることなく、家の務めを果たせるのだ。


二、「狂」の思想──理性を超えた覚悟の強靭さ

狂=信念を貫くための突破力

この章で語られている「狂気(気違い沙汰)」とは、常識や打算を超えた純粋な志の表出を意味します。
現代では「狂」と聞くとネガティブな印象が強いですが、山本常朝にとってそれはむしろ、現代的打算に汚されていない清冽な決意であり、「強靭な志」の象徴なのです。

「図にはづれて死にたらば、大死気違なり。恥にはならず。」

これは、結果主義の世俗的価値観に対する真っ向からの反論です。
志のために命を賭ける者を、外野が「狂」と呼ぶのならば、それはむしろ誇るべき称号である、と常朝は喝破しています。


三、背景:元禄の泰平と“志の空洞化”

常朝がこの思想を述べた背景には、「武士道」の形骸化への憂いがあります。
武士はかつて「命を賭して守るべきもの」のために生きた存在でしたが、元禄期には安逸と利得の追求に陥り、もはや「死」すら遠いものになっていた。

常朝の言葉は、そんな価値の空洞化した時代への反骨として、「狂」すら肯定する強烈なメッセージだったのです。


四、ビジネスにおける応用:狂者の覚悟とは

状況「狂」の実践的な意味
起業や事業立ち上げ成功が保証されない中でも、「やらずにはいられない志」を持って踏み出す行為は、常識から見れば“狂気”と映るが、それが真の原動力となる。
困難な選択無難に妥協する道ではなく、理念を選ぶ道は「気違い沙汰」と言われるかもしれないが、長期的には信頼と尊敬を勝ち得る。
信念の維持周囲に迎合せず、自分の軸を貫く。そのために失敗しても、それは恥ではないという心の支えになる。

五、まとめ:『葉隠』が示す現代的覚悟

  • 「狂」は「志」を守り抜く意志の極点である。
  • 成否ではなく、「死身」の姿勢こそが評価される。
  • 現代では「死ぬ気で挑む」という形での転換が必要。
  • 「一生落度なく、家職を仕果す」ためには、毎朝毎夕、志を問い直し続けることが大切。

✅心得要約:「狂うほどに志を貫く――それが真の自由を得る道である」

命を惜しまずに挑む覚悟、それは現代でいえば、信念を捨てない生き方である。人から“狂っている”と笑われるほどの信念こそが、偉業を成し、人生に筋を通す力となる。『葉隠』が語る狂気は、最も強い「理性」なのだ。

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