目次
■原文(日本語訳)
第2章 第50節
クリシュナは言った。
「知性をそなえた人は、この世で、善業と悪業をともに捨てる。
それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。」
■逐語訳
- ブッディ・ユクタハ(知性に結ばれた人は):理性と霊的知性に立脚する人は、
- イハ(この世において):現世の実践の中で、
- ウバヘー・スクリタ・ドゥシュクリテ(善行と悪行の両方を):いかなるカルマ(良きも悪しきも)であれ、
- ウバンダティ(捨て去る/超越する):その影響から自由になる。
- タスマート・ヨーガーヤ・ユジュヤスヴァ(ゆえにヨーガに熟達せよ):だからこそ、ヨーガを修めなさい。
- ヨーガハ・カルマス・カウシャラム(ヨーガとは、行為の巧みさなり):ヨーガは“行為における卓越さ”である。
■用語解説
- 善業・悪業(スクリタ・ドゥシュクリタ):善行・悪行の両方。いずれも「結果への縛り」を生む。
- ブッディ(知性):霊的洞察力、判断力、自己を見つめる智慧。
- ヨーガ:心と行為を調和させた実践の道。単なる行動ではなく、精神の姿勢を含む。
- カウシャラム(巧妙さ・熟練・卓越):技術的な上手さ以上に、状況に応じた智慧の働き・精妙な対応力。
■全体の現代語訳(まとめ)
クリシュナはここで、「善い行為」「悪い行為」という評価からも自由になった、知性に立脚する行為者の境地を語ります。
善であれ悪であれ、「行為の結果」にとらわれていては束縛が生じるが、
ヨーガに熟達した者は、それを超え、すべての行為を智慧のもとに統御できるというのです。
その姿勢は、単なる形式的な正しさではなく、**「行為の中に宿る熟達(カウシャラム)」**なのです。
■解釈と現代的意義
この節は、ギーターの実践的側面を最もよく表した一節の一つです。
「ヨーガは諸行為における巧妙さ(カウシャラム)」――この言葉は、単なる瞑想や禁欲を超えて、
実生活の中で、どれだけ知性と調和して動けているかを問うています。
つまり、
- 行為に執着せず
- 結果に動じず
- 状況に応じた最善の判断をもって
- 柔軟かつ誠実に行動する――
この在り方こそが、真のヨーガであるとされているのです。
■ビジネスにおける解釈と適用
観点 | 解釈と応用例 |
---|---|
成果と評価の超越 | 「正しいことをしても非難される」「努力しても報われない」こともある。だが、その行為の質が問われる。 |
実務におけるヨーガ | 状況を読み、タイミングを見て、柔軟かつ精妙に判断し、冷静に行動する――これが“行為における巧妙さ”。 |
善悪を超えた行動倫理 | 一般的な評価軸ではなく、深い洞察に基づいて“いま最善のこと”をする。その姿勢が真のリーダーシップ。 |
成熟した実行力 | 失敗を恐れず、成果を焦らず、「やるべきことをやる」ことで、結果として信頼と成果がついてくる。 |
■心得まとめ
「行為は外見でなく、智慧で磨かれる」
善と悪の評価、成功と失敗の基準。
それらすべてを超えて、
“いま何をすべきか”を知っている者が、真のヨーギー(行為の達人)である。
ギーターは言う:
「ヨーガとは、行為の中に宿る智慧の芸術」
行為を磨け。
心を整えよ。
結果に左右されず、
あなた自身の行動に、真実と洗練を宿せ。
次の第51節では、このような知性に根差した行為者が、いかにして輪廻の束縛から自由になるかが語られます。
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